ナチス・ドイツから逃れる哲学者が、使い古した鞄の中に最後まで入れていたのは、未完の原稿と、この一枚の絵でした。《新しい天使(アンゲルス・ノヴス)》(1920年)は、スイス出身の画家パウル・クレーによるモノプリント作品で、エルサレムのイスラエル博物館が所蔵しています。生前のクレーにとってはさほど知られた作品ではなかったこの一枚は、ある哲学者の手に渡ったことで、20世紀の歴史哲学を象徴する存在へと変貌しました。
基本情報
作者:パウル・クレー(1879〜1940)
制作年:1920年
技法・素材:モノプリント(油彩転写技法)、水彩、インク
サイズ:約31.8×24.2cm
所蔵:イスラエル博物館(エルサレム)
最初の所有者:ヴァルター・ベンヤミン(1921年購入)
原題:Angelus Novus(ラテン語で「新しい天使」)
一言でいうと
《新しい天使》は、ぎこちなく描かれた仮面のような顔と、指のように尖った翼を持つ、正体不明の天使を描いた作品です。特定の場面設定を持たないこの人物像は、前へ進もうとしているのか、後ろへ引き戻されているのかも判然としないまま、平坦で中心を占める構図の中に浮かんでいます。
制作背景
クレーがこの作品を手がけた1920年は、彼の画業における飛躍の年でした。ミュンヘンで初めての大規模な個展を開き、まもなくワイマールのバウハウスに加わることになるこの時期、クレーは自らの芸術観をまとめた文章「創造的信条」を完成させています。晩年にかけて彼は50点近い天使の姿を描き続けており、こうした超自然的な存在は、クレー独自の形而上学的な世界観の中に位置づけられるべきものです。
この絵は1921年、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ヴァルター・ベンヤミンによって、クレーのミュンヘンの画商から購入されました。ベンヤミンはこの絵を深く愛し、住まいを変えるたびに常にこれを持ち歩き、ベルリンの自宅では執筆机の真上に掛けていたと伝えられています。1933年、ナチス・ドイツから逃れざるを得なくなった際にも、彼はこの絵をパリへの亡命に携えていきました。
その後ベンヤミンは、パリでこの絵を含む所持品の一部を思想家ジョルジュ・バタイユに託します。バタイユはこれを哲学者テオドール・アドルノに遺贈し、アドルノはさらにこれを、パレスチナに渡っていたベンヤミンの終生の友人であり、ユダヤ神秘主義研究の大家であったゲルショム・ショーレムのもとへ送り届けました。ショーレムの死後、その遺族によって1987年、この絵はイスラエル博物館へと寄贈されています。
見どころ

定まらない顔と翼
この天使の顔は、大きく見開かれた目を持つ仮面のような造形で描かれており、伝統的な天使像の優美さとは無縁です。ぎざぎざとした翼は、羽根というより、指や機械の部品を思わせる形状をしています。
進むのか、退くのか
背景には具体的な場所も方向性も示されておらず、この人物が前進しているのか後退しているのかは、意図的に曖昧なままにされています。この宙ぶらりんの姿勢こそが、後にベンヤミンが与えた解釈の出発点となりました。
ベンヤミンが見た「歴史の天使」
ベンヤミンは死の直前に書いた最後の文章の一つ「歴史の概念について」の中で、この絵をこう解釈しています――この天使は顔を過去へと向けており、私たちが出来事の連鎖として見るものを、彼はただ一つの破局として見ている。楽園から吹きつける嵐が彼の翼に絡みつき、あまりの強さに彼は翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けたままの未来へと否応なく押し流していく。この嵐こそ、私たちが「進歩」と呼んでいるものなのだ、と。
評価と受容
生前のクレーにとって、この絵はさほど注目される作品ではありませんでした。しかしベンヤミンの著述を通じて「歴史の天使」として広く知られるようになり、今日ではクレーの作品の中でも最も有名な一枚に数えられています。この絵はまた、1989年に制作されたドイツの美術家アンゼルム・キーファーの彫刻《歴史の天使:ケシと記憶》にも直接的な着想を与えており、こちらの作品も同じくイスラエル博物館のコレクションに収められています。紙という繊細な素材であるため、原画は光による劣化を防ぐ目的で、しばしば複製が代わりに展示されています。
よくある誤解
誤解①「この絵は生前からクレーの代表作として知られていた」→ 実際は生前ほとんど注目されない作品だった
今日の知名度の高さから、当初から評価されていたと思われがちですが、実際にはこの絵が広く知られるようになったのは、ベンヤミンの著述による「歴史の天使」という解釈が世に出て以降のことです。
誤解②「この絵は一貫して美術館の所有物として伝わってきた」→ 実際は複数の個人の手を経て、命がけの逃避行にも同行している
ずっと美術品として大切に保管されてきたと思われがちですが、実際にはベンヤミンがナチスから逃れる際に自ら携えて亡命し、その後もバタイユ、アドルノ、ショーレムという複数の思想家たちの手を渡り歩いた末に、ようやく美術館に収まりました。
FAQ
Q. 《新しい天使》とはどんな作品ですか?
A. クレーが1920年に手がけたモノプリント作品で、仮面のような顔と尖った翼を持つ、正体不明の天使を描いています。イスラエル博物館が所蔵しています。
Q. なぜこの絵は「歴史の天使」と呼ばれるようになったのですか?
A. この絵を所有していた哲学者ベンヤミンが、最後の著作の中でこの天使を、過去の破局を見つめながら未来へと押し流されていく存在として解釈し、その言葉が広く知られるようになったためです。
Q. この絵はどのようにしてイスラエル博物館に収まったのですか?
A. ベンヤミンからバタイユ、アドルノ、ショーレムへと複数の思想家の手を経て、1987年にショーレムの遺族によって同館に寄贈されました。
Q. 《新しい天使》はどこで見られますか?
A. イスラエル・エルサレムのイスラエル博物館が所蔵しています。原画は保護のため、複製が展示されることも多くあります。
まとめ
一枚の紙切れが、亡命者の鞄の中で命をつなぎ、複数の思想家の手を渡り歩きながら、ついには「歴史とは何か」を考える上で欠かせない図像にまでなりました。クレー自身がどこまで意図していたかは分かりませんが、この宙ぶらりんの天使が背負うことになった重みは、彼の絵筆が生み出したどんな作品よりも大きなものになったのかもしれません。
