《座るデーモン》とは|レールモントフの詩に取り憑かれた画家が描いた、悲しみを抱く悪魔を追う

夕焼けに染まる山あいで、翼を持つ半裸の人物が膝を抱えるように座り込んでいます。筋骨隆々とした体つきと長い髪、そして哀しみをたたえた表情が、男とも女ともつかない不思議な雰囲気を漂わせています。《座るデーモン》(1890年)は、ロシア象徴主義の画家ミハイル・ヴルーベリによる油彩画で、モスクワのトレチャコフ美術館が所蔵しています。ロシアの詩人レールモントフが書いた叙事詩を出発点にしながら、画家自身が生涯にわたって取り憑かれることになる主題の、最初の到達点となった一枚です。

目次

基本情報

作者:ミハイル・ヴルーベリ(1856〜1910)
制作年:1890年
技法・素材:油彩・カンヴァス(パレットナイフを多用)
サイズ:約116.5×213.8cm
所蔵:トレチャコフ美術館(モスクワ)
原案:ミハイル・レールモントフの叙事詩『デーモン』(1839年)

一言でいうと

《座るデーモン》は、山の頂で膝を抱えて座り込む、半裸で翼を持つ人物を描いた作品です。この存在は、レールモントフの詩に登場する、天国からも地獄からも締め出されて彷徨い続ける堕天使を下敷きにしていますが、ヴルーベリはこれを単なる悪の化身ではなく、悲しみと威厳を同時に抱えた存在として描いています。

制作背景

ヴルーベリは1885年、まだキエフにいた頃にレールモントフの詩『デーモン』に基づく最初のデーモン像を手がけていましたが、この作品は自らの手で破棄してしまいます。1889年にモスクワへ移り住んだ後、彼は改めてこの主題に取り組み、この《座るデーモン》を、モスクワで手がけた最初の大画面作品として完成させました。制作場所はパトロンだったサヴァ・マモントフの邸宅だったと伝えられています。

周囲の友人たちは、この主題を描くことが世間やアカデミーから拒絶されるのではないかと危惧し、ヴルーベリを思いとどまらせようとしていました。しかしモスクワに移ってからの彼は、自分の作品が世間に理解されないことを、むしろ受け入れるようになっていったといいます。妹アンナに宛てた手紙の中で、ヴルーベリはこの人物を「半裸で翼を持ち、膝を抱えて夕焼けを背に座り、花咲く野原を見つめる、もの悲しく物思いにふける若々しい姿」だと説明していますが、興味深いことにこの手紙では「彼女」という女性形の代名詞が使われており、男女の境界を意図的に曖昧にしていたことがうかがえます。

見どころ

額縁に押し込められた巨体

デーモンの体は、画面の上下の枠にほとんど収まりきらないほど大きく描かれており、まるで窮屈な額縁の中に無理やり押し込められているかのような印象を与えます。この圧迫感が、自由に羽ばたけない存在としてのデーモンの苦悩を、構図そのものによって物語っています。

結晶のような筆致

ヴルーベリはこの絵で、パレットナイフを多用した独特の筆致を用いています。平坦な色面を積み重ねるようなこの技法によって、画面全体がまるでステンドグラスやモザイクのように、結晶の断面が輝くような質感を帯びています。周囲に描かれた花々も、鉱物の破片のような角ばった形で表現されています。

男女の境界が溶け合う姿

長く波打つ髪は女性的な印象を与える一方、筋肉質な体つきは男性的です。ヴルーベリ自身がこの人物を語る際に女性形の言葉を用いていたことからも分かるように、この曖昧さは意図されたものであり、象徴主義の画家たちがしばしば追求した、性別の境界を超えた存在という主題とも重なります。

評価と受容

発表当初、この絵は厳しい批判にさらされました。それでもヴルーベリにとってこの作品は、自身の芸術表現をより高い次元へと押し上げる転機となりました。彼自身は後にこの人物について「デーモンは悪霊というよりも、苦悩し悲しみを抱えながら、同時に威厳と支配力を備えた存在である」と語っています。1891年にはレールモントフの生誕記念版の挿絵として30点の作品を手がけており、その大半がこの『デーモン』の詩に基づくものでした。

ヴルーベリはこの後もデーモンという主題に繰り返し取り組み、1899年には世界を支配する存在として描いた《飛翔するデーモン》を、1901年から02年にかけては、死の淵に追い詰められた姿を描いた《打ちのめされた悪魔》を完成させています。この最後の作品の展覧会の場で、ヴルーベリ自身が精神の均衡を崩し入院に至ったことを思うと、この《座るデーモン》は、彼の生涯を貫くことになる主題の、まだ穏やかだった出発点だったと言えるでしょう。

よくある誤解

誤解①「このデーモンは単純な悪の象徴として描かれている」→ 実際は苦悩と威厳を併せ持つ存在として描かれている
「デーモン」という言葉の響きから邪悪な怪物を思い浮かべがちですが、実際にはヴルーベリ自身が語ったように、この人物は悪霊というより、彷徨い続ける悲しみと、それでも失われない威厳を同時に抱えた存在として描かれています。

誤解②「この絵の人物は明確に男性として描かれている」→ 実際は性別が意図的に曖昧にされている
筋骨隆々とした体つきから男性像だと決めつけられがちですが、実際にはヴルーベリ自身が手紙の中でこの人物を女性形の言葉で呼んでおり、長い髪と筋肉質な体を組み合わせることで、性別の境界を意図的に曖昧にしています。

FAQ

Q. 《座るデーモン》とはどんな作品ですか?
A. ヴルーベリが1890年に手がけた油彩画で、夕焼けの山を背景に膝を抱えて座る、半裸で翼を持つ人物を描いています。レールモントフの詩『デーモン』を題材にしており、トレチャコフ美術館が所蔵しています。

Q. なぜこの人物の体は画面に収まりきらないほど大きいのですか?
A. デーモンが自由に羽ばたくことのできない、拘束された存在であることを、構図そのものによって表現するための工夫だとされています。

Q. この絵は何を原作にしていますか?
A. ロシアの詩人レールモントフが1839年に書いた叙事詩『デーモン』が原作で、天国からも地獄からも締め出された堕天使を主人公にした物語です。

Q. 《座るデーモン》はどこで見られますか?
A. ロシア・モスクワのトレチャコフ美術館が所蔵しています。

まとめ

友人たちに反対されてまで描き上げたこのデーモンは、ヴルーベリにとって出発点にすぎませんでした。彼はこの後何年もかけて、飛び立つデーモン、そして打ちのめされるデーモンへと、同じ主題を描き続けることになります。一枚の絵に込められた苦悩が、画家自身の人生の行く末を先取りしていたようにも見えてくるのは、こうした後年の展開を知っているからかもしれません。

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