コロンブスがわずか3隻の船でアメリカ大陸を目指すよりも87年も前に、全長120メートルを超える巨大な船を含む300隻近い大艦隊が、すでにアフリカ東海岸まで到達していた。この事実は、大航海時代がヨーロッパの専売特許だったという私たちの常識を、静かに揺さぶり続けている。この記事では、明王朝の提督鄭和が率いたこの壮大な航海が、どのように行われ、そしてなぜ歴史の陰に埋もれていったのかを見ていく。
定義
鄭和の大航海とは、1405年から1433年にかけて、明王朝の永楽帝の命により、宦官の提督鄭和が指揮した、計7回にわたる大規模な海洋遠征を指す。この艦隊は南シナ海からインド洋、アラビア海を経て、東アフリカにまで至る広範囲を航行し、30を超える国や地域を訪問した。ヨーロッパの大航海時代に先立つこと数十年、すでにこれほどの規模の航海が行われていたという事実は、今日でも世界史における重要な再評価の対象であり続けている。
具体例
鄭和の大航海の規模は、以下のような具体的な事実からうかがえる。
- 1405年7月11日、鄭和は27800人の乗組員とともに、255隻の船団(うち62隻が「宝船」)を率いて南京を出発した
- 最大の宝船は9本のマストを備え、全長120メートルを超えていたとされる
- 1419年、艦隊は外国からの使節を通じて、キリンをはじめとする珍しい動物を明の宮廷にもたらした
- コロンブスが1492年に西回りでの航海に出発したのは、鄭和の最初の航海から実に87年後のことだった
背景
鄭和は雲南のイスラム教徒の家庭に生まれ、10歳あるいは11歳の頃、明軍によって捕らえられ、宦官とされた。彼はその後、皇子朱棣(後の永楽帝)に仕えることになり、1403年、朱棣が甥にあたる建文帝に対して起こした反乱に貢献した功績から、「鄭」の姓を賜った。永楽帝として即位した朱棣は、明王朝の国威を海外に示し、朝貢体制を拡大するという壮大な構想を抱いており、その実現のため、信頼する鄭和を艦隊の総指揮官に任命する。
展開
前例のない規模の艦隊
1405年、最初の航海に出発した鄭和の艦隊は、27800人もの乗組員と255隻の船から構成されており、そのうち62隻は「宝船」と呼ばれる巨大な船だった。最大級の宝船は9本のマストを備え、全長120メートルを超えていたと伝えられている。この艦隊は単なる貿易船団ではなく、兵士や通訳、行政官までも乗せた、いわば海に浮かぶ一つの都市のような存在だった。
東南アジアからアフリカへ
7回にわたる航海を通じて、鄭和の艦隊は南シナ海、マラッカ海峡を抜けてインド洋、アラビア海へと進み、最終的には東アフリカとペルシャ湾にまで到達した。最初の3回の航海はインド西岸のカリカットまでを主な目的地としていたが、第4回の航海ではペルシャ湾のホルムズにまで達し、後半の3回の航海では、アラビア半島や東アフリカにまで進出している。艦隊はカリカット・ホルムズ・マラッカといった主要な港に立ち寄りながら、各地の統治者たちと外交的な贈答を交わし、貿易の取り決めを結んでいった。1407年には、パレンバンで海賊陳祖義の船団を撃破するなど、航路の安全確保にも力を注いでいる。
皇帝の交代と航海の中断
1424年、鄭和の長年の後ろ盾であった永楽帝が、モンゴル遠征の最中に死去した。後を継いだ皇帝は、遠方への高額な航海に消極的な姿勢を示し、モンゴルの脅威への対応や万里の長城の再建に予算を振り向ける必要もあって、鄭和の航海は一時中断されることになる。しかしこの皇帝もわずか数か月で世を去り、続く宣徳帝のもとで、鄭和は7回目にして最後となる大航海に、再び乗り出すことになった。
記録の抹消と航海の終焉
7回目の航海の帰路、あるいはその直後、鄭和はこの世を去ったとされる。彼の死後、明王朝はこうした大規模な海洋遠征を再び行うことはなかった。15世紀末から16世紀初頭にかけて、宰相劉大夏をはじめとする官僚たちの意向のもと、鄭和の航海に関する多くの記録が意図的に破棄されたと伝えられており、この壮大な事業の詳細な記録の多くが、今日まで失われる結果となっている。
現代への影響
鄭和の航海は、当時の中国が持っていた造船・航海技術の高さと、国家的な事業として海洋進出を成し遂げる組織力を、雄弁に物語る歴史的な事例として、今日再評価が進んでいる。この航海がコロンブスの航海に先立つこと87年、そして規模においてもヨーロッパの初期の探検船団をはるかに凌駕していたという事実は、大航海時代という概念そのものを、ヨーロッパ中心の物語から相対化する材料としても、しばしば引き合いに出される。今日、東南アジア各地には、鄭和にちなんだ寺院や地名が今も残されている。
よくある誤解
誤解①「鄭和の航海は、ヨーロッパの大航海時代と同様、新大陸の発見や植民地の獲得を目的としていた」→ 実際は朝貢体制の拡大と国威発揚が主目的だった
「大航海」という共通の呼び名から、ヨーロッパの探検航海と同じ目的を持っていたと思われがちだが、実際には鄭和の航海は、新たな領土や植民地の獲得を目指すものではなく、既存の朝貢体制を海外に広げ、明王朝の国威と権勢を示すことを主な目的としていた。
誤解②「鄭和の航海の記録は、当時から現在まで一貫して完全な形で保存され続けてきた」→ 実際は後の官僚たちによって意図的に破棄された
これほどの規模の航海であれば、詳細な記録が当然残されていると思われがちだが、実際には鄭和の死後、後の官僚たちの意向によって多くの記録が意図的に処分されており、今日私たちが知ることのできる航海の詳細は、断片的な史料の寄せ集めにすぎない。
FAQ
Q. 鄭和の大航海とはどんな出来事ですか?
A. 1405年から1433年にかけて、明王朝の提督鄭和が率いた計7回の大規模な海洋遠征です。南シナ海からインド洋、東アフリカにまで至る広範囲を航行し、30を超える国や地域を訪問しました。
Q. なぜ鄭和はこれほど大規模な艦隊を率いることができたのですか?
A. 永楽帝が明王朝の国威を海外に示し、朝貢体制を拡大するという壮大な構想を掲げ、信頼する鄭和にこの艦隊の指揮を任せたためです。
Q. 鄭和の航海はなぜ突然終わったのですか?
A. 後ろ盾だった永楽帝の死去と、モンゴルの脅威への対応に予算が振り向けられたことで航海は一時中断され、鄭和自身も7回目の航海の後に世を去り、以後この規模の遠征は行われませんでした。
Q. 鄭和の航海はコロンブスの航海とどう違うのですか?
A. 鄭和の最初の航海はコロンブスの航海より87年早く、規模もはるかに大きかった一方、新たな領土の獲得ではなく、朝貢体制の拡大と国威発揚を主な目的としていた点で異なります。
まとめ
コロンブスがまだ生まれる何十年も前に、120メートルを超える巨船を含む大艦隊が、すでにアフリカの海岸線に姿を現していた。それにもかかわらず、この壮大な航海の記録の多くは、後の官僚たちの手によって静かに葬り去られてしまう。技術と組織力において先を行きながら、その先にある世界への関心を持続させられなかったという事実は、大航海時代の主役が誰であったかという問いに、単純な答えなど存在しないことを物語っている。
