ロシア革命をわかりやすく|二月革命から十月革命、そしてロマノフ朝の終焉まで解説

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ロシア革命をわかりやすく|二月革命から十月革命、そしてロマノフ朝の終焉まで解説

1917年、たった1年のうちにロシアでは2つの革命が立て続けに起きた。最初の革命は皇帝を退位させ、次の革命はその後継政権すら倒してしまう。わずか数か月の間に、300年続いた王朝が消え、世界初の社会主義国家が生まれることになった。この記事では、二月革命から十月革命までの流れと、それがもたらした結末を見ていく。

定義

ロシア革命とは、1917年にロシアで起きた2つの革命、すなわち皇帝ニコライ2世を退位させた「二月革命」と、その後の臨時政府を打倒してボリシェヴィキ政権を樹立した「十月革命」を合わせて指す言葉である。この2つの革命を経て、ロシアはロマノフ王朝による帝政から、世界初の社会主義国家であるソビエト連邦へと姿を変えることになった。

具体例

1917年の激動は、以下のような具体的な出来事の積み重ねとしてたどることができる。

  • 1917年3月(ロシア旧暦2月)、ペトログラードでの大規模な暴動をきっかけにニコライ2世が退位した
  • 同年7月、アレクサンドル・ケレンスキーが臨時政府の首相に就任した
  • 同年8月、コルニーロフ将軍がペトログラードへの進軍を試み、臨時政府への信頼をさらに失わせる結果となった
  • 同年11月7日(ロシア旧暦10月25日)、ボリシェヴィキが冬宮を占拠し、臨時政府を打倒した

背景

第一次世界大戦への参戦は、ロシアに深刻な負担を強いていた。前線での度重なる敗北、物資不足、そして食料や燃料の供給難が、都市の労働者や兵士たちの不満を積み上げていく。皇帝ニコライ2世の統治は、こうした危機に有効な手を打てないまま長引いており、国民の間には帝政そのものへの信頼が急速に失われつつあった。

展開

二月革命と帝政の終わり

1917年3月、首都ペトログラードでパンの配給不足に端を発した抗議行動が始まり、これに軍の一部までもが同調する事態へと発展した。事態の収拾がつかなくなる中、ニコライ2世は3月15日、ついに退位を決断する。300年以上続いたロマノフ王朝は、ここで実質的な終わりを迎えた。退位後、権力は自由主義者や社会主義者からなる「臨時政府」に移り、社会革命党のケレンスキーがその中心人物として台頭していく。

臨時政府の苦悩

臨時政府は、選挙による正式な政府樹立を戦後まで先送りする一方、大戦への参戦は継続するという、国民の期待とはかけ離れた方針を取り続けた。7月、ケレンスキーが首相に就任した頃には、この対応の遅れへの不満はすでに限界に達しつつあった。同年8月には、総司令官コルニーロフがペトログラードへ軍を進めるという事件が起きる。ケレンスキーはこれをクーデター未遂とみなし、鎮圧のためにボリシェヴィキ系の赤衛隊にまで武器を配って協力を仰いだ。この一件は、皮肉にも臨時政府の権威をさらに傷つけ、結果としてボリシェヴィキの発言力と武装力を強めることになった。

十月革命とボリシェヴィキの権力掌握

臨時政府への不信が頂点に達する中、亡命先から戻ったレーニン率いるボリシェヴィキは、武装蜂起の準備を着々と進めていく。1917年11月7日(ロシア旧暦10月25日)、トロツキーが指揮する軍事革命委員会のもとで、ボリシェヴィキの部隊が政府の主要施設と冬宮を制圧した。ケレンスキーはペトログラードを脱出し、臨時政府はほとんど流血を伴わないまま崩壊する。翌日、レーニンは「土地に関する布告」と「平和に関する布告」を発し、私有地の廃止と即時停戦をそれぞれ呼びかけた。

その後の内戦とロマノフ家の最期

ボリシェヴィキ政権の樹立後も、国内は安定には程遠かった。レーニンの「赤軍」と、王党派や旧体制の支持者を含む「白軍」との間で内戦が勃発し、この戦いは1922年から23年にかけてまで続くことになる。この混乱の中、1918年7月、退位後シベリアに幽閉されていたニコライ2世とその一家は、ボリシェヴィキによって処刑された。

現代への影響

十月革命は、世界初の社会主義国家という前例のない存在を生み出し、その後の20世紀の国際政治を大きく規定することになった。ソ連という国家の誕生は、中国をはじめとする各地の共産主義運動を触発する一方、これに対抗する形でファシズムのような反動的な政治潮流を生む一因ともなった。第二次世界大戦後には東西冷戦という形で、この1917年の出来事の余波が数十年にわたって世界を分断し続けている。

よくある誤解

誤解①「十月革命は激しい市街戦を伴う大規模な戦闘だった」→ 実際はほとんど流血を伴わない権力奪取だった

「革命」という言葉の響きから、激しい戦闘を伴う出来事だったと思われがちだが、実際には冬宮の占拠を含め、ボリシェヴィキによる権力奪取そのものはほとんど抵抗を受けず、比較的短時間かつ低い犠牲で完了している。本格的な流血は、この後に続く内戦の中で起きることになった。

誤解②「ロシア革命は1917年の出来事だけで完結している」→ 実際はその後数年続いた内戦を経て体制が確立した

十月革命の成功をもって革命が完結したように思われがちだが、実際にはボリシェヴィキ政権が国内を掌握するまでには、1922年から23年まで続く内戦という、さらに長く血なまぐさい過程が必要だった。

FAQ

Q. ロシア革命とはどんな出来事ですか?
A. 1917年にロシアで起きた二月革命と十月革命の総称です。二月革命で皇帝ニコライ2世が退位し、十月革命でボリシェヴィキが臨時政府を打倒して、世界初の社会主義国家の樹立へとつながりました。

Q. なぜ二月革命は起きたのですか?
A. 第一次世界大戦による経済的な負担と食料不足が積み重なり、皇帝の統治への信頼が失われたことが直接のきっかけとなりました。

Q. 臨時政府はなぜ短命に終わったのですか?
A. 選挙による正式政府の樹立を先送りしながら大戦への参戦を続けたことで国民の不満を招き、さらにコルニーロフ事件をめぐる対応の混乱が、ボリシェヴィキの台頭を後押ししました。

Q. ロマノフ家はどうなったのですか?
A. ニコライ2世は1917年3月に退位した後、家族とともにシベリアへ幽閉され、1918年7月、ボリシェヴィキによって処刑されました。

まとめ

二月革命でロマノフ王朝が終わり、十月革命でボリシェヴィキが権力を握る。1917年という1年間に起きたこの2つの革命は、それぞれ性格の異なる出来事でありながら、300年続いた帝政をわずか数か月で消し去るという、同じ激動の中で連鎖していった。臨時政府がもう少し早く決断を下していれば、この結末は違っていたかもしれない。歴史の分岐点は、案外そんな小さな遅れの積み重ねでできている。

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