奴隷貿易の歴史|大西洋を渡った1200万人の記憶を徹底解説
15世紀から19世紀にかけて、およそ1000万人から1200万人ものアフリカの人々が、意思とは関係なく船に乗せられ、大西洋を渡ってアメリカ大陸へと送られた。彼らを待っていたのは、二度と故郷に戻ることのない、奴隷としての人生だった。この記事では、大西洋奴隷貿易がどのように始まり、どのように終わったのかをたどっていく。
定義
大西洋奴隷貿易とは、15世紀から19世紀にかけて、主にヨーロッパの商人たちが西アフリカの人々を捕らえ、あるいは購入し、船で大西洋を渡ってアメリカ大陸のプランテーションへと送り込んだ、大規模な人身売買を指す。この期間を通じて、推定1000万人から1200万人ものアフリカの人々が強制的に輸送されたとされている。
具体例
この貿易の規模と実態は、以下のような具体的な記録からうかがえる。
- 1560年から1850年までの間に、約480万人がブラジルへ、約470万人がカリブ海諸島へと送られた
- 大西洋を渡る航海(「中間航路」)は平均して約80日間かかり、その過程で乗せられた人々のおよそ15%が病気などで命を落としたとされる
- 1807年、イギリス議会が奴隷貿易そのものを禁止する法律を可決した
- 1833年、イギリスで奴隷制廃止法が成立し、翌年施行され、カリブ海地域を中心に80万人以上が解放された
背景
15世紀後半、ポルトガルの商人たちは、大西洋の島々にあるサトウキビ農園の労働力として、アフリカの人々を輸送し始めていた。1492年のコロンブスの航海を経てアメリカ大陸への道が開かれると、この貿易は一気に規模を拡大していく。
当初、スペインやポルトガルの入植者たちは、現地の先住民を労働力として使おうとしていた。しかし征服に伴う暴力と、ヨーロッパから持ち込まれた疫病によって、先住民の人口は壊滅的な打撃を受ける。この結果生じた深刻な労働力不足を埋める手段として、ヨーロッパの商人たちはアフリカへ目を向けることになった。なお、アフリカ内部における奴隷制自体はヨーロッパ人の到来以前から存在しており、一部の現地の有力者たちも、アルコールや布地といった商品と引き換えに、人々を売り渡すことに加担していたことが記録されている。
展開
三角貿易という仕組み
大西洋奴隷貿易は、「三角貿易」と呼ばれる仕組みの一部として組み込まれていた。ヨーロッパから武器や織物、酒などがアフリカへ運ばれ、アフリカからは奴隷とされた人々がアメリカ大陸へ、そしてアメリカ大陸からは砂糖やタバコといった産品がヨーロッパへと運ばれる。この三段階の航海のいずれにおいても、商人たちは船倉を満載にすることができたため、この貿易は非常に高い利益を生む事業として成立していた。
中間航路という地獄
アフリカからアメリカ大陸へと向かう航海は「中間航路」と呼ばれ、平均して約80日間続いた。捕らえられた人々は、身動きもままならないほど密集した状態で船倉に押し込められ、十分な換気も水も与えられないまま、長い航海に耐えることを強いられた。こうした劣悪な環境のもと、輸送された人々のおよそ15%が、航海の途中で病気や衰弱によって命を落としたとされている。輸送先の内訳を見ると、ブラジルが最も多くの人数を受け入れており、続いてカリブ海諸島、そして北米大陸には比較的少ない割合が送られている。
奴隷貿易への抵抗と廃止
18世紀後半になると、ヨーロッパやアメリカの一部で、奴隷貿易そのものの正当性を疑問視する声が高まり始める。イギリスではクエーカー教徒を中心とした廃止運動が広がり、劣悪な船内環境を描いた図版などを通じて世論に訴えかけた。この運動の成果として、1807年、イギリス議会は奴隷貿易そのものを禁止する法律を可決する。さらに1833年には奴隷制廃止法が成立し、翌年の施行によって、カリブ海地域を中心に80万人以上が正式に解放された。もっとも、奴隷とされた人々自身による抵抗もまた、この歴史における重要な原動力だった。フランス領サン=ドマングでは1790年代に大規模な反乱が起き、1804年、ナポレオン軍を打ち破って独立を達成し、「ハイチ」という国名を掲げるに至っている。
現代への影響
大西洋奴隷貿易は、アフリカ社会とアメリカ大陸双方に、今日まで続く深い爪痕を残した。強制的に連れ去られた人々の労働は、アメリカ大陸のプランテーション経済とヨーロッパの富の蓄積を支える一方、アフリカの各地域からは働き盛りの世代が奪われ続け、その地域社会の発展に長期的な打撃を与えたと考えられている。またこの歴史は、アメリカ大陸における人種差別の構造的な起源としても、今日なお議論の対象であり続けている。
よくある誤解
誤解①「奴隷貿易はヨーロッパ人だけが一方的に行った搾取だった」→ 実際はアフリカ内部の勢力も取引に関与していた
ヨーロッパの商人たちの残虐さばかりが強調されがちだが、実際にはアフリカ内部にはヨーロッパ人到来以前から奴隷制が存在しており、一部の現地の有力者たちも、商品と引き換えに人々を売り渡す取引に関与していた。ただしこれは、ヨーロッパ側の需要がこの貿易の規模を桁違いに拡大させた責任を軽減するものではない。
誤解②「奴隷貿易は1807年のイギリスの禁止法によって即座に終わった」→ 実際はその後も数十年にわたって続いた
イギリスの禁止法によって奴隷貿易全体が即座に止まったと思われがちだが、実際にはこの法律が可決された後も、輸送された人々全体のおよそ4分の1がそれ以降に大西洋を渡っており、非合法な取引は19世紀後半まで断続的に続いていたとされる。
FAQ
Q. 大西洋奴隷貿易とはどんな出来事ですか?
A. 15世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの商人たちが西アフリカの人々を捕らえ、あるいは購入して、大西洋を渡ってアメリカ大陸のプランテーションへ送り込んだ、大規模な人身売買です。推定1000万人から1200万人が輸送されました。
Q. なぜヨーロッパ人はアフリカから労働力を求めたのですか?
A. アメリカ大陸の先住民が、征服の暴力とヨーロッパからの疫病によって激減し、深刻な労働力不足に陥ったためです。
Q. 中間航路とはどのようなものでしたか?
A. アフリカからアメリカ大陸へ向かう約80日間の航海を指し、劣悪な環境の中で輸送された人々のおよそ15%が命を落としたとされています。
Q. 奴隷貿易はいつ、どのように終わったのですか?
A. 1807年、イギリス議会が奴隷貿易そのものを禁止する法律を可決し、1833年には奴隷制廃止法が成立しました。ただし非合法な取引はその後も数十年にわたって続きました。
まとめ
三角貿易という利益を生む仕組みのもとで、1000万人を超える人々が意思とは無関係に大西洋を渡らされ、そのうちの相当数が航海の途中で命を落とした。奴隷とされた人々自身の抵抗と、廃止運動の高まりが、ようやくこの貿易に終止符を打つことになる。しかしその爪痕は、法律が変わった後も長く社会に残り続けた。制度が廃止されることと、その影響が消えることは、決して同じではない。
