《イカロスの墜落のある風景》とは|主人公が画面の隅に消えた、逆説の神話画を徹底解説

《イカロスの墜落のある風景》(1555〜60年代頃)は、フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル(父)に伝統的に帰属してきた油彩画で、ベルギー王立美術館(ブリュッセル)が所蔵する作品です。ギリシャ神話の一場面を描いたこの絵は、主人公イカロスの姿を画面の片隅にわずかに追いやり、代わりに何気ない農夫の日常を主役に据えるという、逆説に満ちた構図によって、後世の詩人たちにまで大きな影響を与えた作品でありながら、実はブリューゲル自身の真筆かどうかという、根本的な謎を抱えています。

目次

基本情報

項目内容
作者ピーテル・ブリューゲル(父)に伝統的に帰属(真筆かどうかは議論中)
制作年1555〜60年代頃(諸説あり)
技法・素材油彩・カンヴァス(木製パネルに裏打ち)
サイズ約73.5×112cm
所蔵ベルギー王立美術館(ブリュッセル、1912年発見・購入)
主題オウィディウス『変身物語』のイカロスの神話

一言でいうと

《イカロスの墜落のある風景》は、蝋の翼で太陽に近づきすぎて墜落したイカロスの神話を描きながら、主人公イカロスの姿を画面右下の水しぶきを上げる小さな両脚だけに縮小し、代わりに畑を耕す農夫の何気ない日常を画面の主役に据えるという、逆説に満ちた構図によって、悲劇に対する人間や自然の無関心を鮮烈に描き出した作品でありながら、この絵自体がブリューゲル自身の真筆なのか、それとも失われた原画の模写にすぎないのかという、根本的な謎を抱えている一枚である。

制作背景

この絵は、オウィディウスの『変身物語』に語られる、蝋で固めた翼をつけて空を飛んだイカロスが、太陽に近づきすぎたために蝋が溶け、海へと墜落する神話を主題としています。この主題は、ブリューゲルが古典神話から直接題材を取った、確認できる唯一の作品とされ、普段は農民の暮らしや諺、風景を主に描いていた彼の画業の中でも異色の存在です。この絵は1912年に発見され、ベルギー王立美術館に購入されました。

見どころ

逆転した主役:この絵の最大の特徴は、題名にもなっているイカロスの姿が、画面右下の水面にわずかにばたつく両脚としてしか描かれていない点です。画面の大部分を占めるのは、悲劇にはまるで気づかぬ様子で畑を耕し続ける農夫と、羊の群れを見守る羊飼い、そして釣りをする漁師の姿です。この構図は、「それでも農夫は耕し続けた」というフランドルの諺を視覚化したものとも解釈されています。羊飼いが海とは逆の空を見上げている理由については、本来この絵(あるいはその原画)には、彼が見つめる先に、もう一人の登場人物である父ダイダロスの姿が描かれていたのではないかとも推測されています。

技術調査が明かした謎:1996年に行われた技術調査により、この絵が実際にはブリューゲル自身の手によるものではない可能性が高いことが判明しました。今日では、失われたブリューゲルの原画(1558年頃の制作と推測されています)を、後年、無名の画家が模写した作品ではないかとする見方が有力です。ベルギー王立美術館自身も、「実際の制作がブリューゲル(父)によるものかどうかは疑わしいが、構図が彼によるものであることは確実だと言える」と説明しています。もっとも、近年の技術研究によってこの問題は再び議論の的となっており、確定的な結論には至っていません。

評価と影響

この絵は、悲劇が起きているまさにその瞬間にも、世界の他の部分は何ら変わらず日常を続けているという、人間の無関心という普遍的なテーマを表現した作品として、後世の文学者たちに大きな影響を与えました。詩人W・H・オーデンは、1938年にブリュッセルのこの美術館を訪れた際の体験をもとに、代表作の一つ『美術館』(原題「ミュゼ・デ・ボザール」、すなわちこの美術館の名前そのもの)を書き上げています。オーデンはこの詩の中で、「ブリューゲルのイカロスにおいて、すべてはいかにゆったりと惨事から目をそむけることか。農夫は水しぶきの音や、見捨てられた叫びを耳にしたかもしれない。しかし彼にとって、それは重大な失敗ではなかった」と綴っています。詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズも、1960年に同じ題名の詩『イカロスの墜落のある風景』を発表しており、この絵は英語文学における「絵画から生まれた詩(エクフラシス)」の最も著名な事例の一つとなっています。

よくある誤解

誤解①「この絵はブリューゲル自身の真筆である」→ 実際は真贋をめぐって今も議論が続いている
ブリューゲルの代表作として広く知られていることから、彼自身の真筆だと思われがちですが、実際には1996年の技術調査によって、実際の制作は彼自身の手によるものではなく、失われた原画の模写である可能性が高いと考えられるようになっており、この問題は今日でも決着していません。

誤解②「主人公イカロスがこの絵の視覚的な中心である」→ 実際は画面の隅にわずかに描かれているだけである
題名から、イカロスの墜落そのものがこの絵の中心的な光景だと思われがちですが、実際には彼の姿は画面右下の水しぶきを上げる両脚としてしか描かれておらず、画面の主役は、悲劇に気づかぬ様子で日常を続ける農夫たちです。

FAQ

Q. 《イカロスの墜落のある風景》とはどんな作品ですか?
A. ブリューゲル(父)に伝統的に帰属する油彩画で、ギリシャ神話のイカロスの墜落を、画面の隅に追いやる形で描いています。ベルギー王立美術館が所蔵しています。

Q. なぜイカロスの姿はこれほど小さく描かれているのですか?
A. 悲劇が起きているまさにその瞬間にも、世界の他の部分は何ら変わらず日常を続けているという、人間の無関心という普遍的なテーマを視覚的に表現するためだと考えられています。

Q. この絵はブリューゲル自身が描いたのですか?
A. 1996年の技術調査により、実際の制作は彼自身の手によるものではない可能性が高いと考えられていますが、構図自体は彼によるものとされ、真贋をめぐる議論は今も続いています。

Q. 《イカロスの墜落のある風景》はどこで見られますか?
A. ベルギー・ブリュッセルのベルギー王立美術館が所蔵しています。

まとめ

《イカロスの墜落のある風景》は、蝋の翼で太陽に近づきすぎて墜落したイカロスの神話を描きながら、主人公イカロスの姿を画面右下の水しぶきを上げる小さな両脚だけに縮小し、代わりに畑を耕す農夫の何気ない日常を画面の主役に据えるという、逆説に満ちた構図によって、悲劇に対する人間や自然の無関心を鮮烈に描き出した作品でありながら、この絵自体がブリューゲル自身の真筆なのか、それとも失われた原画の模写にすぎないのかという、根本的な謎を抱えている一枚です。460年以上を経た今もなお、この絵は人間の無関心という普遍的なテーマを、私たちに静かに伝えています。

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