ベルト・モリゾとは|印象派を陰で支えた「三大貴婦人」の一人の生涯・代表作をわかりやすく解説

ベルト・モリゾ(1841〜1895)は、フランス印象派を代表する女性画家です。1874年の第1回印象派展に参加した最初の女性画家として、そして母性や女性たちの家庭生活を描き続けた画家として、批評家から「印象派の三大貴婦人」の一人と称されながらも、生涯を通じて男性の同僚画家たちほどの評価を得ることはなく、その功績は長らく美術史の陰に埋もれ続けてきました。

《ゆりかご》
目次

基本情報

項目内容
本名ベルト・マリー・ポーリーヌ・モリゾ
生誕1841年1月14日(フランス・ブールジュ)
没年1895年3月2日(パリ、54歳)
主な様式印象派
代表作ゆりかご
配偶者ウジェーヌ・マネ(画家エドゥアール・マネの弟)
埋葬地パッシー墓地(パリ)

一言でいうと

ベルト・モリゾは、1874年の第1回印象派展に参加した最初の女性画家として、そして母性や女性たちの家庭生活を描き続けた画家として、批評家から「印象派の三大貴婦人」の一人と称されながらも、生涯を通じて男性の同僚画家たちほどの評価を得ることはなく、その功績は長らく美術史の陰に埋もれ続けてきた人物である。

生涯

芸術を後押しした家庭

モリゾは、フランス中部の町ブールジュで、裕福な中産階級の家庭に生まれました。父はパリの美術学校で学んだ後、高官に転じた人物で、母もまた芸術に理解のある家系の出身でした。両親はモリゾと姉エドマの絵画への熱意を強く後押しし、自宅の庭にアトリエまで建てて彼女たちを支援しています。1864年、モリゾはパリ・サロンに初めて出品を果たしました。

マネとの出会いとルーヴルでの修業

1857年から絵の手ほどきを受け始めたモリゾとエドマは、その後画家ジョゼフ=ブノワ・ギシャールに師事し、彼の案内でルーヴル美術館に通い、巨匠たちの作品を模写する日々を送りました。1861年頃、姉妹はこのルーヴルでの模写活動を通じて、若き画家エドゥアール・マネと出会います。この出会いは、モリゾにとって生涯にわたる重要な関係の始まりとなりました。1862年から68年にかけては、風景画家カミーユ・コローのもとで、風景画の技法と戸外制作(プレネール)の手法を学んでいます。

ウジェーヌ・マネとの結婚

モリゾとエドゥアール・マネの関係については、単なる友人以上のものだったのではないかとも噂されてきましたが、その真相は今日でも確証がありません。1868年、モリゾはマネの兄ウジェーヌ・マネと出会い、1874年12月22日、彼と結婚しました。ウジェーヌ自身も画家を志していましたが、妻の画業を支えるため、自らのキャリアを断念しています。彼はモリゾに対し、結婚後も決して絵を描くことをやめるよう求めませんでした。夫妻の自宅は、詩人ステファヌ・マラルメをはじめとする、当時の芸術家・文学者たちが集うサロンとなっていきます。1878年には、娘ジュリーが誕生しました。彼女は後にモリゾにとって重要なモデルとなります。

同年、モリゾはドガの助言を受け、エドゥアール・マネの反対を押し切って、フランス美術アカデミーの権威に対抗する形で企画された1874年の展覧会(第1回印象派展)への参加を決めました。彼女はこの展覧会に参加した最初の女性画家となります。1877年の展覧会にのみ、娘の出産と重なったため出品を見送っていますが、それ以外の印象派展にはほぼ皆勤で参加を続けました。

夫の死とモリゾ自身の早すぎる死

1892年4月13日、長い闘病の末、夫ウジェーヌが世を去りました。夫の死からわずか1か月後、モリゾは彼が生前から後押ししていた個展を開催し、売り上げも批評も好評を博しています。夫の死後もモリゾは、商業的な大成功こそ得られなかったものの、シスレーやルノワール、モネといった同時代の画家たちよりも多くの作品を売り上げていたとも言われています。しかし1895年、病気の娘ジュリーを看病していたモリゾ自身が肺の感染症にかかり、同年3月2日、54歳という若さでこの世を去りました。彼女は、夫ウジェーヌと、友人であり義兄でもあったエドゥアール・マネとともに、パリのパッシー墓地に葬られています。

代表作

  • ゆりかご》(1872年):眠る娘を見つめる母親を描いた、印象派史上記念碑的な作品。オルセー美術館所蔵。
  • 《舞踏会のドレスの若い女性》:1894年、フランス政府によって買い上げられた作品。
  • 室内の家族生活を描いた連作:娘ジュリーや姪たちを描いた、晩年の代表的な画題。

評価

モリゾは、批評家ギュスターヴ・ジェフロワから、メアリー・カサット、マリー・ブラックモンとともに「印象派の三大貴婦人」の一人と称されました。庭園や公園での女性と子供の情景を中心に、家庭という私的な空間の中でしか描き得ない題材を追求し続けたその画業は、より挑発的な主題を扱った男性の印象派画家たちとは一線を画すものでした。しかし、彼女がこの画期的な美術運動に果たした重要な貢献にもかかわらず、その評価は生前も没後も、男性の同僚画家たちと同等には扱われず、今日でも印象派の正典の中では比較的周縁的な存在として位置づけられ続けています。

よくある誤解

誤解①「モリゾは印象派グループの中で周縁的な存在にすぎなかった」→ 実際は最初の女性参加者として、ほぼ皆勤で展覧会に貢献し続けた
今日の相対的な知名度から、グループの中では傍流の存在だったと思われがちですが、実際には彼女は1874年の第1回展に参加した最初の女性画家であり、以後ほぼすべての印象派展に出品を続け、商業的にはシスレーやルノワール、モネよりも多くの作品を売り上げていたとも言われています。

誤解②「モリゾの夫ウジェーヌは、彼女の画業に無関心だった」→ 実際は自らのキャリアを断念してまで彼女を支え続けた
当時の一般的な結婚観から、夫が妻の画業に消極的だったと思われがちですが、実際にはウジェーヌ自身も画家を志していたにもかかわらず、自らのキャリアを断念してまで妻の画業を支え、決して絵を描くことをやめるよう求めなかったと伝えられています。

FAQ

Q. ベルト・モリゾとはどんな人物ですか?
A. フランス印象派を代表する女性画家で、1874年の第1回印象派展に参加した最初の女性画家として知られています。代表作に《ゆりかご》があります。

Q. モリゾとマネ兄弟の関係はどのようなものでしたか?
A. モリゾは画家エドゥアール・マネと親しい関係を築いた後、1874年、その弟であるウジェーヌ・マネと結婚しました。

Q. モリゾはなぜ54歳という若さで亡くなったのですか?
A. 1895年、病気の娘ジュリーを看病していた際に自身も肺の感染症にかかり、これが原因で世を去りました。

Q. モリゾの代表作はどこで見られますか?
A. 代表作《ゆりかご》は、フランス・パリのオルセー美術館が所蔵しています。

まとめ

ベルト・モリゾは、1874年の第1回印象派展に参加した最初の女性画家として、そして母性や女性たちの家庭生活を描き続けた画家として、批評家から「印象派の三大貴婦人」の一人と称されながらも、生涯を通じて男性の同僚画家たちほどの評価を得ることはなく、その功績は長らく美術史の陰に埋もれ続けてきた人物です。130年近くを経た今もなお、彼女が描いた女性たちの静かな日常は、見る者の心に深く語りかけています。

あわせて読みたい
《ゆりかご》とは|画家の道を諦めた姉に捧げた、母性のまなざしを徹底解説 《ゆりかご》(1872年)は、フランス印象派を代表する女性画家ベルト・モリゾによる油彩画で、パリのオルセー美術館が所蔵する作品です。眠る娘を見つめる母親の姿を描い...
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次