メアリー・カサットとは|失明という悲劇を乗り越えられなかった印象派の「三大貴婦人」の生涯・代表作をわかりやすく解説

メアリー・カサット(1844〜1926)は、アメリカ出身でありながら生涯の大半をフランスで過ごした印象派の画家です。母子の親密な絆をはじめ、当時の女性たちの社会的・私的な生活を描き続けたその画業は、批評家ギュスターヴ・ジェフロワから「印象派の三大貴婦人」の一人と称されるほどの評価を得ましたが、晩年、糖尿病による視力の喪失が、彼女から絵筆を執る自由そのものを奪い去りました。

《青い肘掛け椅子の少女》
目次

基本情報

項目内容
本名メアリー・スティーヴンソン・カサット
生誕1844年5月22日(アメリカ・ペンシルベニア州アレゲニー)
没年1926年6月14日(フランス・ル・メニル=テリブス、82歳)
主な様式印象派
代表作青い肘掛け椅子の少女》《子供の沐浴》
主な友人エドガー・ドガ
晩年の病糖尿病による失明

一言でいうと

メアリー・カサットは、アメリカ出身でありながら生涯の大半をフランスで過ごし、母子の親密な絆をはじめとする当時の女性たちの社会的・私的な生活を描き続け、批評家から「印象派の三大貴婦人」の一人と称されるまでの評価を得た画家でありながら、晩年、糖尿病による視力の喪失によって、絵筆を執る自由そのものを奪われるという悲劇に見舞われた人物である。

生涯

裕福な家庭からヨーロッパへ

カサットは、現在のピッツバーグ北部にあたるペンシルベニア州アレゲニー・シティで、株式仲買人・土地投機家の父ロバート・シンプソン・カサットと、銀行家の家系出身の母キャサリン・ケルソ・ジョンストンの間に生まれました。幼少期には家族とともにヨーロッパで5年間を過ごしています。フィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミーで学んだ後、1866年、父の反対を押し切ってヨーロッパへ渡り、イタリア、スペイン、オランダを巡りながら研鑽を積みました。ジャン=レオン・ジェロームやトマ・クチュールといった、当時のヨーロッパを代表する画家たちのもとで学び、1872年にはパリ・サロンで初めての大きな出品を果たします。

ドガとの出会いと印象派への参加

1874年、カサットはパリを永住の地と定め、自身のアトリエを構えました。1875年のサロンで落選を経験したこともあり、印象派の画家たちが持つ実験精神と、屋外の光に着想を得た鮮やかな色彩表現に強く惹かれていきます。この頃、後に生涯の友人となる画家エドガー・ドガと出会いました。ドガの様式と、クールベの様式は、彼女自身の画風にも大きな影響を与えることになります。ドガはとりわけカサットの素描の才能を高く評価しており、1877年、彼女に印象派展への参加を呼びかけました。カサットはこの誘いを受け入れ、1879年の第4回印象派展で、11点の作品を出品してデビューを果たします。この展覧会は、当時の印象派グループにとって、それまでで最も成功を収めた、収益性の高い展覧会にもなりました。以後、1880年、81年、86年の展覧会にも参加を続けています。

独自の画題の追求

印象派の画家たちとの交流を通じて、カサットの画風は大きく変化していきました。それまでアカデミー流行の衣装風俗画を手がけていた彼女は、以後、現代都市生活の情景、とりわけ子供の世話、読書、編み物、お茶を注ぐ様子、女性同士の語らいといった、女性たちの日常のひとときを描くことに専念するようになります。生涯独身を貫いたカサットですが、家庭生活そのものには決して疎遠だったわけではなく、1877年には両親と姉が、そして二人の兄の家族もたびたびパリを訪れ、身近に接していました。

カサットは絵画制作にとどまらず、アメリカにおける印象派美術の普及にも力を注ぎました。兄アレクサンダー(ペンシルベニア鉄道の社長で、アメリカにおける印象派作品の初期の主要な収集家の一人でした)を通じて、重要な作品をアメリカへともたらす手助けをしたほか、友人ルイジーン・ヘヴマイヤーに、ドガやマネ、モネ、モリゾ、ルノワールの作品を購入するよう助言しています。こうした働きかけによって集められた作品の数々は、今日、ニューヨーク近代美術館やナショナル・ギャラリー・オブ・アートといった主要美術館の中核的なコレクションを形成しています。1915年には、女性参政権運動への支援を目的とした展覧会を、友人ヘヴマイヤーとともに企画し、自身の作品18点を寄贈しました。

失明という晩年の悲劇

1884年、カサットはフランスの田舎に城館メニル=ボーフレーヌを購入し、パリの喧騒から離れる晩年の隠棲先としました。しかし年を重ねるにつれ、同じく印象派の画家クロード・モネと同様に、彼女の視力は徐々に衰えていきます。1914年には両目に白内障の診断を受け、複数回の手術を試みたものの効果はなく、ついに失明に至りました。自らの独立心を何よりも大切にし、自然からの観察を制作の核としてきた画家にとって、視力の喪失はあまりに大きな打撃でした。1901年には版画制作を、1914年には絵画制作そのものを断念せざるを得なくなりましたが、それでもなお女性参政権運動への支援や、アメリカにおける印象派美術の普及活動には力を注ぎ続けました。1926年6月14日、フランスの居城で、82歳の生涯を閉じました。

代表作

  • 青い肘掛け椅子の少女》(1878年):子供時代の描き方に新風を吹き込んだ、印象派時代の代表作。ナショナル・ギャラリー・オブ・アート所蔵。
  • 《子供の沐浴》(1891年頃):母子の親密な絆を描いた、彼女の代表的な画題を体現する作品。
  • 《舟遊び》:大胆な構図と鮮やかな色彩が特徴的な作品。

評価

カサットは、モネやピサロ、そして生涯の友人ドガとともに印象派展に出品し、いかなる美術アカデミーとの結びつきも、いかなる賞の受賞も生涯を通じて拒み続けるという、独立不羈の精神を印象派の画家たちと共有していました。しかし彼女の作品には、他の印象派画家とは一線を画す独自性もあります。光の効果そのものへの関心よりも、女性たちが営む日常の世界、すなわち子供の世話や読書、お茶の時間、女性同士の語らいといった主題を、他の誰よりも深く掘り下げた点に、カサットならではの画業の核心があります。

よくある誤解

誤解①「カサットはフランス人画家である」→ 実際はアメリカ出身の画家である
生涯の大半をフランスで過ごし、印象派グループの一員として活躍したことから、フランス人画家だと思われがちですが、実際にはカサットはアメリカのペンシルベニア州で生まれ育ったアメリカ人画家です。

誤解②「カサットは晩年まで変わらず制作を続けた」→ 実際は糖尿病による失明のため晩年は制作を断念せざるを得なかった
生涯にわたって旺盛に制作を続けたと思われがちですが、実際には1914年、糖尿病による白内障のため失明し、絵画制作を断念せざるを得なくなり、以後は絵筆を執ることのないまま晩年を過ごしました。

FAQ

Q. メアリー・カサットとはどんな人物ですか?
A. アメリカ出身でありながら生涯の大半をフランスで過ごした印象派の画家で、母子の親密な絆をはじめとする女性たちの日常生活を描いたことで知られています。代表作に《青い肘掛け椅子の少女》があります。

Q. なぜカサットは印象派に参加したのですか?
A. 友人となった画家エドガー・ドガから招かれ、1879年の第4回印象派展に初めて出品して以来、グループの一員として活動を続けました。

Q. カサットはなぜ晩年、絵を描けなくなったのですか?
A. 糖尿病による白内障を患い、複数回の手術も効果がなく、1914年頃には完全に失明してしまったためです。

Q. カサットの代表作はどこで見られますか?
A. 代表作《青い肘掛け椅子の少女》は、アメリカ・ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが所蔵しています。

まとめ

メアリー・カサットは、アメリカ出身でありながら生涯の大半をフランスで過ごし、母子の親密な絆をはじめとする当時の女性たちの社会的・私的な生活を描き続け、批評家から「印象派の三大貴婦人」の一人と称されるまでの評価を得た画家でありながら、晩年、糖尿病による視力の喪失によって、絵筆を執る自由そのものを奪われるという悲劇に見舞われた人物です。150年近くを経た今もなお、彼女が描いた女性たちの静かな日常は、見る者の心に深く語りかけています。

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