《大使たち》(1533年)は、ドイツ出身でイギリスを拠点に活動した画家ハンス・ホルバイン(子)による油彩画で、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する作品です。2人のフランス人外交官を描いたこの絵は、当時の知性と教養を象徴する調度品に満ちた壮麗な肖像画でありながら、その画面には、正面から見ただけでは決して読み解けない、いくつもの「隠された仕掛け」が周到に埋め込まれています。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ハンス・ホルバイン(子)(1497/98〜1543) |
| 制作年 | 1533年 |
| 技法・素材 | 油彩・オーク板 |
| サイズ | 207×209.5cm |
| 所蔵 | ナショナル・ギャラリー(ロンドン、1890年購入) |
| モデル | ジャン・ド・ダントヴィル(左)、ジョルジュ・ド・セルヴ(右) |
| 別名 | 《ジャン・ド・ダントヴィルとジョルジュ・ド・セルヴ》 |
一言でいうと
《大使たち》は、当時の学問と教養を象徴する精緻な調度品に囲まれた2人のフランス人外交官を描いた壮麗な肖像画でありながら、宗教改革期のヨーロッパを引き裂いていた対立の予兆を静かに織り込み、さらに、ある特定の角度からしか正体を現さない歪んだ頭蓋骨と、目立たぬよう隠された十字架像という、2つの「見えない仕掛け」によって、繁栄の裏に潜む死と信仰という主題を提示した作品である。
制作背景
画面左に描かれているのは、当時イギリス宮廷駐在のフランス大使を務めていたジャン・ド・ダントヴィル(29歳、短剣の鞘に年齢が刻まれています)、右側は、ラヴォール司教であり、ヴェネツィアやローマ教皇庁、ドイツ、スペインへの大使も務めていた友人ジョルジュ・ド・セルヴ(25歳、寄りかかる書物に年齢が記されています)です。この絵は、セルヴが1533年4月にロンドンを訪れた際の記念として制作されました。
見どころ

知の宝庫としての調度品:2人の間に置かれた2段の棚には、当時の知的教養を網羅するかのような品々が並べられています。上段には天体儀、携帯用日時計、四分儀、トルクエトゥム(複雑な天文観測器具)など、天と時間を測るための道具が。下段には地球儀(ダントヴィルの居城ポリジーの位置が示されています)、ドイツの讃美歌集、リュート、フルートのケース、算術の教科書など、地上の営みに関わる品々が配置されています。
忍び込む不穏な兆し:一見すると学識と繁栄を誇示するこの静物群には、しかし随所に不協和音が潜んでいます。リュートには1本だけ切れた弦があり、これは伝統的に死や不和を象徴するとともに、当時カトリックとプロテスタントの間で深まりつつあった教会分裂(ちょうどこの絵が描かれた1533年、ヘンリー8世がローマ教会から離反しています)を暗示しているとも解釈されています。開かれた讃美歌集には、ルター派の宗教改革に関連する讃美歌が記されており、複数の日時計もそれぞれ異なる時刻を示すなど、秩序だった知の世界にひび割れが生じていることが、細部を通じて示唆されています。日時計の示す情報から、この絵が描く日付は1533年4月11日、聖金曜日であったことが特定されています。
歪んだ頭蓋骨:画面下部を横切るように描かれた、奇妙に引き伸ばされた物体は、正面から見ただけでは何であるかわかりません。しかし画面の右下から、極端に斜めの角度で見上げると、この物体は突如として一つの頭蓋骨として姿を現します。この「アナモルフォーシス(歪像画法)」と呼ばれる技法は、16世紀の絵画の中でも最も高度に完成された例の一つとされ、学識と繁栄を誇るこの絵に、「死を忘れるな(メメント・モリ)」という警句を静かに突きつけています。
隠された十字架:画面左上、緑の緞子のカーテンの陰には、ほとんど気づかれることのない小さな十字架像が描き込まれています。この十字架は、頭蓋骨が示す死の必然性に対して、キリストの犠牲による救済という希望を対置する、この絵の神学的な対句として機能していると解釈されています。
評価と来歴
この絵は、フランス・シャンパーニュ地方にあるダントヴィル家の居城ポリジーに伝わる1589年の財産目録に、最初の記録が残されています。1890年、ロンドンのナショナル・ギャラリーがこの絵を購入し、以後同館の代表的な所蔵品の一つとなっています。1997年に大規模な修復が行われましたが、この際、頭蓋骨の寸法が変更されたとして批判の声も上がりました。ドイツ生まれでありながら生涯の多くをイギリスで過ごしたホルバインの画業には、初期フランドル絵画からの影響も色濃く見て取れます。
よくある誤解
誤解①「画面下部の歪んだ物体は単なる装飾的な模様である」→ 実際は特定の角度から見ると頭蓋骨として現れる仕掛けである
正面から見ただけでは奇妙な引き伸ばされた形にしか見えないため、単なる装飾模様だと誤解されがちですが、実際にはこれは「アナモルフォーシス」と呼ばれる歪像画法によって描かれた頭蓋骨であり、画面の右下から極端に斜めの角度で見上げることで、正しい姿が浮かび上がります。
誤解②「この絵は2人の裕福な男性とその所有物を、特に隠された意図もなく描いた記念肖像画である」→ 実際は当時の宗教的・政治的緊張が随所に織り込まれている
華やかな調度品の数々から、単なる繁栄の誇示だと思われがちですが、実際には切れたリュートの弦やルター派の讃美歌集、食い違う日時計の時刻など、1533年当時のヨーロッパを引き裂いていた宗教改革をめぐる緊張が、細部に周到に織り込まれています。
FAQ
Q. 《大使たち》とはどんな作品ですか?
A. ホルバイン(子)が1533年に手がけた油彩画で、フランス人外交官ジャン・ド・ダントヴィルと、司教ジョルジュ・ド・セルヴの姿を、精緻な調度品とともに描いています。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)が所蔵しています。
Q. 画面下部の歪んだ物体は何ですか?
A. アナモルフォーシス(歪像画法)によって描かれた頭蓋骨で、画面の右下から極端な角度で見上げることで、正しい姿が浮かび上がります。
Q. なぜリュートの弦は切れているのですか?
A. 伝統的に死や不和を象徴する表現であり、当時進行していたカトリックとプロテスタントの教会分裂を暗示しているとも解釈されています。
Q. 《大使たち》はどこで見られますか?
A. イギリス・ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています。
まとめ
《大使たち》は、当時の学問と教養を象徴する精緻な調度品に囲まれた2人のフランス人外交官を描いた壮麗な肖像画でありながら、宗教改革期のヨーロッパを引き裂いていた対立の予兆を静かに織り込み、さらに、ある特定の角度からしか正体を現さない歪んだ頭蓋骨と、目立たぬよう隠された十字架像という、2つの「見えない仕掛け」によって、繁栄の裏に潜む死と信仰という主題を提示した作品です。490年以上を経た今もなお、この絵は見る角度によって姿を変える、尽きせぬ謎を私たちに問いかけています。

