J・M・W・ターナー(1775〜1851)は、イギリス・ロマン主義を代表する風景画家です。理髪店を営む家庭に生まれ、正規の学校教育をほとんど受けないまま14歳でロイヤル・アカデミーに入学した神童は、生涯にわたって光と大気、そして自然の猛威を追求し続け、後の印象派をも先取りしたと評される、色彩と光の表現を確立しました。

基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー |
| 生誕 | 1775年4月23日(ロンドン・コヴェント・ガーデン) |
| 没年 | 1851年12月19日(ロンドン、76歳) |
| 主な様式 | ロマン主義 |
| 代表作 | 《雨、蒸気、速度》《解体されるために曳かれてゆく戦艦テメレール号》《奴隷船》 |
| 埋葬地 | セント・ポール大聖堂 |
一言でいうと
J・M・W・ターナーは、理髪店を営む家庭に生まれ、正規の学校教育をほとんど受けないまま神童としてロイヤル・アカデミーに入学し、生涯にわたって光と大気、そして自然の猛威を追求し続けることで、輪郭を溶かし色彩そのものを主役とする独自の表現に到達し、後の印象派をも先取りしたと評される風景画の巨匠である。
生涯
神童の出発点
ターナーは、ロンドンのコヴェント・ガーデンで、かつら職人・理髪師の父のもとに生まれました。母親は精神的な病を抱えており、その状態は1786年に妹が亡くなったことでさらに悪化したとされています。正規の学校教育はほとんど受けませんでしたが、13歳の頃にはすでに、自身の絵が父の店先で売られるほどの才能を見せていました。1789年末、14歳でロイヤル・アカデミーに入学し、翌1790年には早くも、15歳でロイヤル・アカデミー夏季展に初めて水彩画を出品しています。1796年からは油彩画も出品するようになり、1799年、当時認められていた最年少である24歳でロイヤル・アカデミーの準会員に選出され、1802年には正会員となりました。
コックニー訛りを貫いた画家
裕福な同世代の芸術愛好家たちが「グランドツアー」としてヨーロッパを巡る中、革命戦争とナポレオン戦争のためにその機会を持てなかったターナーでしたが、1802年には初めてヨーロッパへ渡り、パリのルーヴル美術館で学んでいます。生涯にわたってロンドンで暮らし続けたターナーは、成功を収めてなお、労働者階級出身を示すコックニー訛りを最後まで隠そうとしなかったことでも知られています。1804年には自身のギャラリーを開設し、1807年からはロイヤル・アカデミーで遠近法の教授職に就き、1828年まで講義を続けましたが、講義そのものは著しく要領を得ないものだったとも伝えられています。
内向的で気難しい性格
ターナーは私生活において、極めて内向的で秘密主義、そして気難しい人物として知られていました。生涯結婚することはありませんでしたが、未亡人サラ・ダンビーとの間に二人の娘、エヴェリナとジョージアナをもうけています。1829年に父が亡くなると、その喪失は彼に深い抑うつをもたらし、以後ターナーはますます人づき合いを避けるようになり、自身のギャラリーも次第に荒廃していきました。晩年には、家政婦であったソフィア・ブースのもとに身を寄せ、「ブース氏」と偽名を名乗りながら、彼女とともに18年間を過ごしています。
晩年のターナーは奇行でも知られ、ロイヤル・アカデミーの夏季展にわざと未完成の作品を提出し、開幕直前の展示室で仕上げを完成させるといった振る舞いをしばしば見せていました。ライバル画家ジョン・コンスタブルの絵に対抗するため、自身のオランダ海景画に鮮やかな赤いブイを描き加えたという逸話も残っており、意気消沈したコンスタブルは、この出来事を「ターナーが銃を撃ち込んでいったようなものだ」と評したと伝えられています。
晩年と死
ターナーは、自身の作品をひとまとめにして後世に残すことを望んでいましたが、この遺志が政府によって実現されたのは、彼の死から22年後のことでした。1851年12月19日、ロンドンでコレラのためターナーは死去し、セント・ポール大聖堂に、敬愛していた画家ジョシュア・レノルズの墓の近くに埋葬されました。生涯に手がけた作品は、油彩画550点以上、水彩画2000点以上、素描類は3万点を超えるとされています。
代表作
- 《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》(1844年):疾走する蒸気機関車を色彩のうねりとして描いた、産業革命期の傑作。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)所蔵。
- 《解体されるために曳かれてゆく戦艦テメレール号》(1839年):帆船時代の終焉を描いた、イギリスで最も愛される絵画の一つ。
- 《奴隷船》(1840年):保険金目当てで奴隷を海に投げ捨てた実話に着想を得た告発的な海景画。ボストン美術館所蔵。


評価
ターナーは、色彩や陰影を捉える実験的な手法によって、同時代の観客をしばしば当惑させましたが、今日ではこうした表現こそが彼の画業の頂点として高く評価されています。輪郭を明確に描かず、光と大気の効果そのものを主題とするその作風は、後の印象派の技法を先取りしたものとしてしばしば言及され、20世紀以降、抽象絵画の先駆者としても再評価されるようになりました。
よくある誤解
誤解①「ターナーは裕福な家庭に生まれ、正規の美術教育を受けた」→ 実際はかつら職人の家庭出身で、独学に近い形で才能を開花させた
ロイヤル・アカデミーの正会員という経歴から、裕福な家庭出身のエリート教育を受けた画家だと思われがちですが、実際にはターナーはロンドンの理髪師・かつら職人の家庭に生まれ、正規の学校教育もほとんど受けないまま、13歳ですでに絵を売っていたほどの神童でした。
誤解②「ターナーは成功後、労働者階級の出自を隠すよう振る舞った」→ 実際は生涯コックニー訛りを貫いた
ロイヤル・アカデミーの重鎮という社会的地位から、洗練された振る舞いを身につけたと思われがちですが、実際にはターナーは成功を収めてなお、労働者階級出身であることを示すコックニー訛りを最後まで隠そうとせず、その出自を意識的に消し去ることはありませんでした。
FAQ
Q. J・M・W・ターナーとはどんな人物ですか?
A. イギリス・ロマン主義を代表する風景画家で、光と大気、自然の猛威を追求した独自の表現で知られています。代表作に《雨、蒸気、速度》があります。
Q. ターナーはなぜ「印象派の先駆者」と呼ばれるのですか?
A. 輪郭を明確に描かず、光と大気の効果そのものを色彩のうねりとして表現する手法が、数十年後に登場する印象派の技法に通じるものと見なされているためです。
Q. ターナーはどんな性格の人物でしたか?
A. 極めて内向的で秘密主義、気難しい性格として知られ、晩年には人づき合いをますます避けるようになりました。一方で奇行や逸話も多く残されています。
Q. ターナーはどこに埋葬されていますか?
A. ロンドンのセント・ポール大聖堂に、敬愛していた画家ジョシュア・レノルズの墓の近くに埋葬されています。
まとめ
J・M・W・ターナーは、理髪店を営む家庭に生まれ、正規の学校教育をほとんど受けないまま神童としてロイヤル・アカデミーに入学し、生涯にわたって光と大気、そして自然の猛威を追求し続けることで、輪郭を溶かし色彩そのものを主役とする独自の表現に到達し、後の印象派をも先取りしたと評される風景画の巨匠です。170年以上前に描かれた光と嵐は、今なお圧倒的な自然の力をそのままの強さで伝えてきます。



