万里の長城はなぜ作られたのか|2000年にわたる防衛の執念を徹底解説

一人の皇帝が思いつきで作った、一枚岩の城壁。そんなイメージとは裏腹に、万里の長城の実態は、2000年以上にわたって複数の王朝が、それぞれの時代の脅威に応じて増築と改修を繰り返してきた、気の遠くなるような執念の産物だった。この記事では、この城壁がなぜ、どのようにして築かれ続けてきたのかを見ていく。

目次

定義

万里の長城とは、中国北方の国境地帯に築かれた、一連の防壁と要塞群の総称を指す。紀元前8世紀から紀元前3世紀にかけての春秋・戦国時代にまでさかのぼる個別の城壁を起源とし、秦の始皇帝による統一・接続を経て、その後も漢・明をはじめとする複数の王朝によって、増築・改修が繰り返された。総延長は、2007年の調査によれば分岐や堀を含めて約2万1196キロメートルに及び、現存する最も保存状態の良い明代の城壁だけでも、約8850キロメートルに達する。

具体例

万里の長城が築かれ続けてきた歴史は、以下のような具体的な事実からうかがえる。

  • 紀元前770年から221年にかけての春秋・戦国時代、複数の諸国がそれぞれ独自の防壁を築いていた
  • 紀元前221年、中国を統一した秦の始皇帝は、既存の城壁をつなぎ合わせ、統一された防衛線を築かせた
  • この建設には最大で40万人が命を落とし、その遺体の多くは城壁そのものに埋められたと伝えられている
  • 1644年、満州族の軍勢が山海関で城壁を突破し、これが明王朝の滅亡と、長城建設の歴史そのものの終わりを告げることになった

背景

中国北方の国境地帯は、古くから遊牧民族の脅威にさらされ続けていた。紀元前770年から221年にかけての春秋・戦国時代、中国はいまだ統一されておらず、複数の諸国が互いに、あるいは北方の遊牧民族に対抗するため、それぞれ独自の防壁を築いていた。この時期に築かれた個々の城壁が、後の万里の長城の最初の原型とされている。

展開

始皇帝による接続と拡張

紀元前221年、中国を統一した秦の始皇帝は、それまで諸国間の内部対立のために築かれていた城壁の多くを取り払う一方、北方の遊牧民族匈奴への備えとして、既存の城壁を一本の防衛線としてつなぎ合わせる大規模な事業に着手した。この工事には、兵士と囚人を中心とする膨大な労働力が動員され、過酷な労働環境のもと、最大で40万人が命を落としたとされる。犠牲となった労働者の遺体の多くは、そのまま城壁の中に埋め込まれたと伝えられている。しかし始皇帝の死後、秦王朝が急速に崩壊すると、この城壁の多くも手入れがなされないまま荒廃していった。

漢代の延伸と後代への引き継ぎ

紀元前206年から紀元後220年まで続いた漢王朝は、城壁をさらに西方へと延伸し、監視のための望楼を各所に増設した。その後も、時代ごとに異なる王朝が、それぞれの直面する脅威に応じて城壁の維持・拡張を続けていく。たとえば宋代には契丹族への備えとして、城壁は重要な防衛線であり続けた。

明代の大改修

今日私たちが目にする、レンガと石で堅牢に築かれた万里の長城の姿は、その大部分が1368年から1644年まで続いた明王朝の時代に築かれたものである。それ以前の秦・漢の時代には、主に土を突き固める「版築」という工法が用いられていたが、明代にはこれに加えてレンガと石材が本格的に使われるようになり、耐久性が大きく向上した。北京近郊にある八達嶺や慕田峪といった、今日観光客に人気の区間も、この明代の建設によるものである。この大規模な改修は、当時脅威となっていたモンゴル勢力への防衛強化を目的としていた。

城壁の終焉

1644年、満州族の軍勢が山海関において城壁を突破し、これが明王朝の滅亡、そして清王朝の成立につながった。この出来事は同時に、2000年近くにわたって続いてきた城壁の建設・維持の歴史そのものにも終止符を打つことになる。以後、城壁は長らく荒廃したままとなっていたが、1957年、中華人民共和国政府によって八達嶺区間が修復され、観光地として一般公開された。

現代への影響

万里の長城は、実際には侵入者を完全に防ぐことができなかったにもかかわらず、中国文明の持続的な強さを象徴する、極めて強力なイメージとして今日まで残り続けている。世界遺産にも登録されているこの城壁は、年間数千万人もの観光客を集める、中国屈指の観光資源であり続けている。また、複数の王朝がそれぞれの時代の脅威に応じて増築を重ねてきたという歴史そのものが、国家の防衛という営みが、決して一度限りの事業では終わらないことを物語っている。

よくある誤解

誤解①「万里の長城は秦の始皇帝が一から築いた、単一の建造物である」→ 実際は複数の時代の城壁をつなぎ合わせ、後の王朝が増改築を重ねたものである

始皇帝の名前があまりに強く結びついているため、彼が一から築いた単一の建造物だと思われがちだが、実際には彼の事業は、それ以前の戦国時代から存在していた個々の城壁をつなぎ合わせるものであり、さらにその後も漢・明をはじめとする複数の王朝が、増築と改修を重ね続けている。

誤解②「万里の長城は宇宙から肉眼で見える唯一の人工建造物である」→ 実際はこの主張には科学的な根拠がない

有名な俗説として広く語られているが、実際には宇宙飛行士たちの証言や科学的な検証によって、肉眼で万里の長城を宇宙から識別することは極めて困難であることが示されており、この主張は今日では否定されている。

FAQ

Q. 万里の長城とはどんな建造物ですか?
A. 中国北方の国境地帯に築かれた、一連の防壁と要塞群の総称です。戦国時代にまでさかのぼる個別の城壁を起源とし、秦の始皇帝による接続を経て、その後も複数の王朝によって増築・改修が繰り返されました。

Q. なぜ万里の長城は作られたのですか?
A. 中国北方の遊牧民族(匈奴やモンゴルなど)からの侵攻を防ぐための防衛線として築かれました。

Q. 今日見られる万里の長城の多くは、いつ作られたものですか?
A. その大部分は、1368年から1644年まで続いた明王朝の時代に、レンガと石を用いて堅牢に改修されたものです。

Q. 万里の長城はどのように終わりを迎えたのですか?
A. 1644年、満州族の軍勢が山海関で城壁を突破したことが明王朝の滅亡につながり、これによって城壁の建設・維持の歴史も事実上終わりを迎えました。

まとめ

一人の皇帝の思いつきではなく、2000年以上にわたって、複数の王朝がそれぞれの時代の脅威に応じて積み重ねてきた執念の産物。それが万里の長城の実像だった。土を突き固めた秦代の城壁から、レンガと石で堅牢に築かれた明代の城壁まで、この防衛線は結局、侵入そのものを完全に防ぐことはできなかった。それでもなお、これほど長く築かれ続けたという事実そのものが、国境を守るという営みに、終わりというものがないことを物語っている。

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