同じプランタジネット家から分かれた2つの家系が、白いバラと赤いバラをそれぞれの紋章に掲げ、30年にわたってイングランドの王位を奪い合った。この内戦は、単に王位を巡る争いにとどまらず、300年以上続いたプランタジネット朝そのものに終止符を打ち、新たなテューダー朝の誕生をもたらすことになる。この記事では、バラ戦争がどのように始まり、どのように終わったのかを見ていく。
定義
バラ戦争とは、1455年から1485年(あるいは1487年)にかけて、プランタジネット家の2つの分家、赤いバラを紋章とするランカスター家と、白いバラを紋章とするヨーク家との間で戦われた、イングランドの王位継承をめぐる内戦を指す。最終的にはランカスター家の血を引くヘンリー・テューダーが勝利を収め、両家の統合を経て、新たなテューダー朝が樹立された。
具体例
バラ戦争の展開は、以下のような具体的な出来事からうかがえる。
- 1455年5月22日、セント・オールバンズの戦いでヨーク派が勝利し、これが戦争の最初の戦闘となった
- 1461年、タウトンの戦いを経てヨーク家のエドワード4世が王位に就いた
- 1483年、リチャード3世が甥のエドワード5世を退けて王位を奪い、その2人の甥「塔の中の王子たち」は以後行方不明となった
- 1485年8月22日、ボズワースの戦いでリチャード3世が敗死し、ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位した
背景
この対立の根本には、1399年にまでさかのぼる王位継承の亀裂があった。この年、国王リチャード2世は、いとこのヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)によって王位を追われている。この出来事によって、エドワード3世を共通の祖先とする、2つの競合する王位継承の系譜が生まれることになった。一方はヘンリー4世の子孫であるランカスター家、もう一方はリチャード2世の血筋を引くヨーク家である。1450年代、国王ヘンリー6世が精神的な不調を繰り返し、その統治能力を疑問視されるようになると、この長年くすぶっていた対立が、いよいよ表面化する土壌が整っていった。
展開
セント・オールバンズでの開戦
1454年、ヘンリー6世の病状悪化を受け、ヨーク公リチャードが「護国卿」に任命された。しかし1455年、王が一時的に回復すると、王妃マージョリー・オブ・アンジューを中心とするランカスター派が再び実権を取り戻し、ヨーク公は自衛のため挙兵せざるを得なくなる。1455年5月22日、ロンドン近郊のセント・オールバンズで両軍が衝突し、この戦いでヨーク派が勝利を収めた。これが30年に及ぶ内戦の、最初の火蓋となった。
王位の激しい奪い合い
その後も両陣営の争いは一進一退を続けた。1461年、タウトンの戦いを経てヨーク公の息子エドワードが王位に就き、エドワード4世として即位する。しかし戦いはこれで終わらず、1471年には廃位されていたヘンリー6世がロンドン塔で殺害されるなど、両陣営の間では容赦のない粛清が繰り返された。1483年、エドワード4世の死後、その弟リチャードは、幼い甥エドワード5世の王位継承権を無効と宣言し、自らリチャード3世として王位を簒奪する。廃位されたエドワード5世と、その弟にあたる幼い王子たちは、「塔の中の王子たち」としてロンドン塔に幽閉された後、その消息を絶ってしまった。この一件は、多くのヨーク派の支持者たちの離反を招く結果となる。
ボズワースの戦いという決着
リチャード3世の強引な王位簒奪への不満が広がる中、亡命先にあったランカスター派の遠縁ヘンリー・テューダーは、この機に乗じて挙兵を決意した。1485年8月7日、彼はウェールズのミルフォード・ヘイヴンに上陸し、着実に支持者を集めながらイングランドへと進軍していく。同年8月22日、両軍はレスターシャー州ボズワースで激突した。この戦いでリチャード3世は敗死し、これはイングランド国王が戦場で命を落とした最後の事例として記録されている。勝利したヘンリー・テューダーは、ヘンリー7世として即位し、新たなテューダー朝を開いた。翌1486年1月、彼はヨーク家の血を引くエリザベス・オブ・ヨークと結婚し、これによって長年対立してきた両家の血統をついに一つに統合した。この統合を象徴するのが、赤と白を組み合わせた「テューダー・ローズ」という新たな紋章である。
最後の余燼
もっとも、この結婚をもって完全に対立が消えたわけではなかった。1487年、ヨーク派の残党は、庶民出身の少年ランバート・シムネルを、幽閉されていたウォリック伯の生き残りだと偽って擁立し、王位を奪還しようと画策した。しかし同年6月16日のストーク・フィールドの戦いで、この反乱勢力もヘンリー7世の軍に敗れ去っている。この戦いをもってバラ戦争の完全な終結とみなす歴史家も少なくない。
現代への影響
バラ戦争は、300年以上続いたプランタジネット朝という一つの王朝に終止符を打ち、以後100年以上にわたってイングランドを統治するテューダー朝の樹立につながった、歴史的な転換点として位置づけられている。この内戦の記憶は、シェイクスピアの史劇をはじめとする数々の文学作品を通じて、後世にも広く語り継がれ続けている。「塔の中の王子たち」の失踪の真相は、今日でも未解決の歴史的な謎として、繰り返し議論の対象になり続けている。
よくある誤解
誤解①「バラ戦争は、赤バラと白バラという明確な紋章対立として、当時から認識されていた」→ 実際は「バラ戦争」という呼称自体、後世になって定着したものである
「バラ戦争」という名称から、当時の人々もこの対立を花の紋章の争いとして認識していたと思われがちだが、実際にはこの呼称は後世の歴史家、とりわけ小説家ウォルター・スコットらによって広められたものであり、当時の同時代人が日常的にこの名で呼んでいたわけではない。
誤解②「バラ戦争はボズワースの戦いをもって完全に終結した」→ 実際はその後もストーク・フィールドの戦いという余燼が続いた
1485年のボズワースの戦いが、この内戦の決定的な終わりとして語られがちだが、実際には1487年、ヨーク派の残党が偽の王位請求者を擁立して反乱を起こしており、この戦いこそが本当の終結点だとする見方も、今日の歴史学では有力視されている。
FAQ
Q. バラ戦争とはどんな戦争ですか?
A. 1455年から1485年(あるいは1487年)まで、プランタジネット家の2つの分家、ランカスター家とヨーク家との間で戦われた、イングランドの王位継承をめぐる内戦です。
Q. なぜランカスター家とヨーク家は対立したのですか?
A. 1399年、国王リチャード2世がいとこのヘンリー・ボリングブルックに王位を奪われたことで、2つの競合する王位継承の系譜が生まれ、この対立が150年以上を経て、内戦へと発展しました。
Q. 「塔の中の王子たち」とは誰のことですか?
A. リチャード3世によって退けられた甥のエドワード5世と、その弟を指し、ロンドン塔に幽閉された後、行方不明となった歴史上の謎として知られています。
Q. バラ戦争はどのように終わったのですか?
A. 1485年、ボズワースの戦いでリチャード3世が敗死し、勝利したヘンリー・テューダーが即位してヘンリー7世となり、翌年ヨーク家の王女と結婚することで、両家の血統を統合しました。
まとめ
同じ王家から分かれた2つの分家が、30年にわたって王位を奪い合い、最終的には両者ともに疲弊しきった末、まったく別の家系がその果実を手にすることになった。ヘンリー7世の即位は、単なる一戦の勝利ではなく、300年続いた王朝そのものの終わりと、新たな時代の始まりを同時に告げる出来事だった。赤と白のバラを組み合わせた紋章は、対立の終わりを象徴すると同時に、それがいかに多くの血によって贖われたかを、静かに物語り続けている。
