ルドン《泣く蜘蛛》とは|「黒」の時代が生んだ夢の怪物

《泣く蜘蛛》(1881年)は、フランスの象徴主義の画家オディロン・ルドンによる木炭素描で、現在は個人が所蔵する作品です。人間の顔を持ち、十本の脚を広げた蜘蛛が、涙を流しながらこちらを見つめています。この記事では、ルドンが「黒」と呼んだ創作の時期がどのようなものだったのか、そしてこの奇妙な生き物にどのような表情が込められているのかを解説します。

目次

ルドン《泣く蜘蛛》とは|基本情報

項目内容
作者オディロン・ルドン
制作年1881年
技法・素材木炭素描
サイズ49.5×37.5cm
所蔵個人蔵(オランダ)
ジャンル象徴主義素描
対をなす作品《微笑む蜘蛛》(1881年、オルセー美術館)

一言でいうと 《泣く蜘蛛》は、人間の顔を持つ怪物という夢のような存在を通じて、ルドンが木炭のみで築き上げた「黒」と呼ばれる幻想世界を象徴する作品である。

制作背景|なぜこの作品は生まれたのか

「黒」と呼ばれた創作の時期

ルドンは1840年、フランスのボルドーに生まれました。ジャン゠レオン・ジェロームのアトリエで伝統的でアカデミックな絵画教育を受けたのち、普仏戦争への従軍を経て、木炭とリトグラフだけを用いた幻想的な作品群を手がけるようになります。ルドンはこれらの作品を「黒」と呼びました。1878年、《水の守護精》によってようやく注目を集め始め、1879年には最初のリトグラフ画集『夢の中で』を発表しています。本作もこうした「黒」の時代を代表する一枚です。

19世紀の昆虫学ブームとの関わり

美術史家マリー゠ピエール・サレによれば、ルドンが蜘蛛という主題を選んだ背景には、19世紀の昆虫学の発展があったと指摘されています。1864年にはウジェーヌ・シモンによる『蜘蛛の博物誌』や、ジュール・ドモロンによる『蜘蛛──陰気な日々に発行される憂鬱症患者向けの雑誌』といった刊行物が世に出ており、こうした時代の空気がルドンの創作に影響を与えた可能性が考えられています。ただし、ルドン自身がどのような文献から具体的に着想を得たのかは、明らかになっていません。

見どころ徹底解説

涙を流す人間の顔

蜘蛛の体には、毛むくじゃらのようにも煤にまみれているようにも見える、人間の顔が組み込まれています。近づいて見ると、その頬には涙の粒が伝っており、この生き物が単なる不気味な怪物ではなく、深い悲しみを抱えた存在として描かれていることが分かります。

対をなす《微笑む蜘蛛》

本作には対をなす作品として、同じく1881年に制作された《微笑む蜘蛛(蜘蛛は目を上げて微笑む)》があり、こちらは現在オルセー美術館(ルーヴル美術館の版画素描室に保管)に所蔵されています。ルドン自身、自らの「黒」を扱ったカタログの中で、この生き物について「人間の顔を持ち、微笑んでいる」と記しています。同じ主題を涙と微笑という対照的な表情で描き分けた点に、ルドンの造形的な遊び心がうかがえます。

十本の脚が生む生々しさ

本作の蜘蛛には、通常の蜘蛛より多い脚が描かれています。この解剖学的な逸脱が、実在の生物とは異なる、夢の中でしか出会えないような存在感を生み出しており、木炭という素材ならではの陰影の濃淡が、その質感をいっそう生々しく際立たせています。

評価と影響

ルドンの木炭素描は、当初あまり広く知られていませんでしたが、1884年に発表されたジョリス゠カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』の中で言及されたことをきっかけに評価が高まりました。今日、ルドンの「黒」の作品群は、木炭という技法を用いた象徴主義を代表する仕事として位置づけられています。本作は来歴をたどると、1911年のパリでの競売を経て、実業家で美術収集家のギュスターヴ・ファイエ、続いてブールジェのコレクション、さらにアムステルダムのブーム夫妻のもとへと渡っており、こうした経緯を経て現在は個人の所蔵品となっています。

実際に見るには

本作は現在、オランダの個人が所蔵しており、常設の美術館では公開されていません。鑑賞を希望される場合は、貸与展示などの最新情報を確認することをおすすめします。

よくある誤解

誤解①「単なる不気味な怪物を描いた作品」→ 深い悲しみを湛えた人間の表情が込められている

蜘蛛という生き物そのものの不気味さに注目が集まりがちですが、本作の核心は、その体に組み込まれた人間の顔が流す涙にあります。単なる恐怖の対象ではなく、感情を持つ存在として描かれている点が重要です。

誤解②「ルドンは生涯を通じて同じ画風を貫いた」→ 1890年以降は色彩豊かな作品へと転向した

ルドンは1890年頃を境に、木炭やリトグラフによる「黒」の制作をやめ、パステルを用いた色彩豊かな作品へと大きく作風を転換させています。本作は、そうした転換以前の初期の代表作にあたります。

FAQ

Q. 何が描かれていますか?
A. 人間の顔を持ち、涙を流す蜘蛛の姿です。通常より多い十本の脚が描かれています。

Q. 作者はどんな画家ですか?
A. オディロン・ルドン(1840〜1916)。フランスの象徴主義を代表する画家・版画家で、木炭による幻想的な「黒」の作品群で知られます。

Q. 対になる作品はありますか?
A. はい。同じ1881年に制作された《微笑む蜘蛛》があり、現在はオルセー美術館に所蔵されています。涙と微笑という対照的な表情で同じ主題が描き分けられています。

Q. どこで見られますか?
A. 現在はオランダの個人が所蔵しており、常設展示はありません。鑑賞をご希望の場合は最新の貸与情報をご確認ください。

まとめ

《泣く蜘蛛》は、木炭のみで築き上げられたルドンの「黒」の世界を象徴する一枚であり、怪物めいた姿の奥に人間らしい悲しみを湛えた、夢と現実の境界に浮かぶ存在です。対をなす《微笑む蜘蛛》とあわせて眺めると、同じ生き物にまったく異なる感情を宿らせたルドンの想像力の幅広さが浮かび上がってきます。

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