《洪水》(1870年)は、イギリスのラファエル前派を代表する画家ジョン・エヴァレット・ミレイによる油彩画で、マンチェスター美術館が所蔵する作品です。木製のゆりかごに乗せられたまま、洪水に流される赤ん坊と、その傍らで怯える黒猫が描かれています。この記事では、この絵の背景にある実際の大惨事と、危機の中にありながら無邪気なままの赤子の姿に込められた意味を解説します。
ミレイ《洪水》とは|基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ジョン・エヴァレット・ミレイ |
| 制作年 | 1870年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| 所蔵 | マンチェスター美術館 |
| ジャンル | 風俗画 |
| 着想元 | 1864年グレート・シェフィールド洪水 |
一言でいうと 《洪水》は、1864年に実際にイギリスで起きたダム決壊による大惨事に着想を得ながら、危機の渦中にあっても無邪気に周囲を見つめる赤子の姿を通じて、絶望と希望の両方を同時に描き出した作品である。
制作背景|なぜこの作品は生まれたのか
グレート・シェフィールド洪水という実際の大惨事
1864年3月11日夜、シェフィールド近郊に建設されたばかりのデール・ダイク・ダムが決壊し、大量の水がロクスリー渓谷へと押し寄せました。この人災により少なくとも240人が命を落とし、600戸以上の住宅が損壊・倒壊したと記録されています。ミレイの息子ジョン・ギル・ミレイが父の伝記の中で記しているところによれば、この「グレート・シェフィールド洪水」こそが本作の直接の着想源でした。当時の新聞報道の中には、ゆりかごに乗せられたまま激流に流された赤ん坊についての記事もあったと伝えられています。
家族をモデルにした制作
本作に描かれた赤ん坊のモデルは、ミレイ自身の娘ソフィーが務めました。傍らで怯える黒猫もまた、ミレイの家庭で飼われていた猫がモデルになったとされています。実際の大惨事という重い主題を扱いながら、身近な家族の姿を借りて描かれている点が、本作の制作背景における興味深い特徴です。
見どころ徹底解説

危機に気づかない赤ん坊
画面の中心に描かれた赤ん坊は、自らが置かれた状況の危うさにまるで気づいていない様子で、目を大きく見開いたまま、頭上の木の枝に光る水滴や、そこに宿る小鳥たちに見入っています。本来であれば微笑ましく映るはずのこの好奇心に満ちた表情が、赤ん坊の運命を知る見る者にとっては、かえって痛切な効果を生んでいます。
恐怖におびえる黒猫
赤ん坊とは対照的に、ゆりかごの端にしがみつく黒猫は、迫りくる危険を明確に自覚している様子で、口を開けて助けを求めるように鳴いています。この対比が、本作における緊張感の中心を成しています。ヴィクトリア朝の美術において黒猫はしばしば不吉の象徴とされており、ここでもその意味合いが重ねられている可能性があります。
遠くに見える救助の舟
画面右奥には、竿を操りながら赤ん坊のいる方向へと近づいてくる男女の姿が小さく描かれています。ミレイはこの一組の人物を配することで、絶望的な状況の中にも救助への希望を残しており、実際の惨事の記憶を扱いながらも、見る者に一筋の安堵を与える構成になっています。
評価と影響
ミレイは1870年代、古典的な巨匠たちや歴史的な主題からの影響を強く受けた作品を数多く手がけており、本作もそうした関心の延長線上に位置づけられます。当時のミレイはすでにラファエル前派の枠を超え、幅広い層に人気を博す画家として成功を収めていました。子どもや猫を描いた作品はヴィクトリア朝の観衆に特に好まれ、経済的にも大きな成功をもたらしましたが、そのために「金銭のためだけに描いている」という批判を同業の画家たちから受けることもあったと伝えられています。
実際に見るには
イギリス・マンチェスター美術館の所蔵作品です。訪問前には開館日・展示状況を公式サイトで確認することをおすすめします。
よくある誤解
誤解①「架空の洪水の場面を描いた作品」→ 実際に起きた大惨事に着想を得ている
本作は牧歌的な物語画のように見えますが、実際には1864年にシェフィールドで起きた、ダム決壊による現実の大惨事を踏まえて構想されています。少なくとも240人が犠牲になったこの災害の記憶が、本作の背景にあります。
誤解②「赤ん坊のモデルは架空の人物」→ 画家自身の娘がモデルを務めている
本作の赤ん坊は、物語のために創作された架空の人物のように見えますが、実際にはミレイ自身の娘ソフィーがモデルを務めています。傍らの黒猫も、画家の家庭で飼われていた猫がモデルとされています。
FAQ
Q. 何が描かれていますか?
A. 木製のゆりかごに乗せられたまま洪水に流される赤ん坊と、怯える黒猫、そして遠くに見える救助の舟の姿です。
Q. 作者はどんな画家ですか?
A. ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829〜1896)。イギリスのラファエル前派を代表する画家で、緻密な自然観察と幅広い主題への取り組みで知られます。
Q. なぜ赤ん坊が微笑ましい表情で描かれているのですか?
A. 自らが置かれた危険な状況に気づかず、頭上の水滴や小鳥に無邪気に見入っている様子を描くことで、危機の中にある無垢さと、それを見つめる観る者の痛切な感情との対比を生み出すためと考えられています。
Q. どこで見られますか?
A. イギリス・マンチェスター美術館です。訪問前に公式サイトで開館状況を確認することをおすすめします。
まとめ
《洪水》は、1864年に実際に起きたシェフィールドの大惨事を踏まえながら、危機に気づかない赤ん坊の無邪気さと、それを見守る観る者の不安とを対比させた作品です。恐怖におびえる黒猫と、遠くに現れる救助の舟という細部が、絶望と希望との間で揺れ動くこの場面に、確かな緊張感を与えています。
