真珠湾攻撃とは|山本五十六が仕掛けた奇襲の全貌を徹底解説

戦争を望まなかった提督が、最も緻密にその開戦を計画する。この一見矛盾した立場に立たされた山本五十六は、アメリカの巨大な工業力を誰よりも理解していたからこそ、短期決戦による奇襲以外に勝機はないと確信していた。この記事では、山本が構想した真珠湾攻撃が、どのように計画され、実行されていったのかを見ていく。

目次

定義

真珠湾攻撃とは、1941年12月7日(日本時間8日)、日本海軍がハワイの真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊に対して行った奇襲攻撃を指す。この作戦は連合艦隊司令長官山本五十六によって構想され、南雲忠一中将率いる機動部隊によって実行された。アメリカ軍艦隊に大きな打撃を与えたこの攻撃は、太平洋戦争の開戦を告げる出来事となった。

具体例

真珠湾攻撃の実像は、以下のような具体的な事実からうかがえる。

  • 山本五十六は1941年1月7日、「軍備に関する私見」と題した覚書を海軍大臣に提出し、この作戦構想を初めて文書化した
  • 南雲忠一中将が率いる機動部隊は、空母6隻を含む艦隊で11月26日にクリル諸島を出発し、発見されることなく真珠湾へ接近した
  • 攻撃当日の未明、真珠湾には最優先目標だったアメリカの空母がすべて出港しておらず不在であることが判明したが、南雲はそのまま作戦続行を決断した
  • 現地時間午前7時53分、攻撃隊長は「トラ・トラ・トラ」の暗号を発し、奇襲の成功を告げた

背景

山本五十六は1884年、新潟県長岡で生まれ、1904年に海軍兵学校を卒業して日露戦争にも従軍した。その後ハーバード大学への留学やワシントン駐在武官としての経験を通じて、彼はアメリカの巨大な工業力を身をもって理解するようになる。この経験ゆえに、彼はアメリカとの長期戦は日本にとって破滅的な結果を招くと確信しており、実は開戦そのものには当初から反対の立場を取っていた。しかし政府がひとたび開戦へと舵を切ると、山本は自らの信念に基づき、短期決戦によってアメリカ太平洋艦隊に決定的な打撃を与え、交渉による講和へと持ち込む以外に勝機はないと考え、この作戦の立案に全力を注いでいく。

展開

内部の強い反対を押し切って

山本の真珠湾攻撃構想は、1941年1月頃にはすでに固まっていたとされるが、これが日本海軍全体の戦略として最終的に受け入れられたのは、開戦のわずか2か月ほど前、同年9月末から10月初旬になってからのことだった。この間、海軍軍令部をはじめとする多くの高官が、この作戦をあまりにも危険だとして強く反対していた。実際に作戦を指揮することになる南雲忠一自身も、空母は数発の爆撃で致命的な損害を受けかねない脆弱な存在だと考え、この計画に懐疑的だった(この懸念は、後のミッドウェー海戦において的中することになる)。それでも山本は自説を曲げず、真珠湾でアメリカ艦隊を無力化できなければ、いずれ日本海軍そのものが破滅を迎えることになると主張し続けた。

出撃と接近

1941年7月2日の御前会議で、開戦へ向けた方針が事実上確認された。11月5日には正式な作戦命令が発せられ、同月26日、南雲中将率いる機動部隊は、空母6隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦11隻という陣容で、クリル諸島から出撃した。艦隊には、ワシントンでの交渉が妥結すれば呼び戻される可能性があることも、あらかじめ伝えられていた。艦隊は発見されることなく太平洋を横断し、12月7日朝までにオアフ島の北方約320キロメートルの海域へと到達している。

予期せぬ知らせと攻撃開始

攻撃当日の未明、機動部隊のもとには、真珠湾に最優先目標だったアメリカの空母が一隻も在泊していないという、思いがけない情報が届いた。空母部隊とほとんどの重巡洋艦はすでに出港しており、残っていたのは戦艦群だけだった。この不測の事態にもかかわらず、南雲とその幕僚たちは、計画通り攻撃を実行する以外に選択肢はないと判断する。現地時間午前7時53分、第一次攻撃隊の隊長は「トラ・トラ・トラ」という暗号を発信し、奇襲が成功したことを本国へ伝えた。攻撃は2波にわたって行われ、全体でおよそ1時間半続いている。

宣戦布告をめぐる混乱

日本側の当初の計画では、対米開戦の通告文書を、攻撃開始の直前に手交することで、形式上は正式な宣戦布告を経た開戦とする段取りが組まれていた。12月1日、開戦の方針が正式に決定され、この通告文書は駐米大使野村吉三郎を通じて手渡される予定だった。しかし在ワシントン日本大使館側での文書の解読・清書作業の遅れから、この通告は実際の攻撃開始よりも後に届けられる結果となった。この結果、真珠湾攻撃は、宣戦布告に先立つ「だまし討ち」として、アメリカ国内で強く受け止められることになる。日本側の一部の記録によれば、これは意図的な奇襲の演出ではなく、外交上の手続きの遅れによる不本意な結果だったとされているが、この経緯の解釈をめぐっては、今日でも見解が分かれている。一方アメリカ側では、暗号解読によって攻撃の兆候をつかんでいたにもかかわらず、軍首脳がこれを深刻には受け止めていなかったことも、後に明らかになっている。

現代への影響

真珠湾攻撃は、山本が意図した通りの戦術的な成功を収めながらも、彼自身が最も恐れていた長期戦へとアメリカを引きずり込む結果を招いた。この攻撃は、それまで参戦に消極的だったアメリカ世論を一夜にして一変させ、結果的に日本の敗北への道筋を決定づけることになったとも評価されている。今日、真珠湾攻撃は、戦術的な勝利が必ずしも戦略的な勝利につながるとは限らないという、軍事史における重要な教訓として、繰り返し参照され続けている。

よくある誤解

誤解①「山本五十六は、アメリカとの戦争を望んでいた好戦的な軍人だった」→ 実際は開戦そのものには当初から反対の立場を取っていた

真珠湾攻撃を綿密に計画したことから、彼自身が開戦を望んでいたと思われがちだが、実際にはアメリカの工業力を熟知していた山本は、当初から対米開戦そのものに反対しており、開戦が決定した後、自らの職務としてこの作戦を立案したというのが実情である。

誤解②「真珠湾攻撃は、意図的な『だまし討ち』として計画されていた」→ 実際は宣戦布告後の攻撃として計画されていたが、通告の遅れによって結果的にそうなった

「だまし討ち」という強い印象から、当初から宣戦布告なしの奇襲として意図的に計画されていたと思われがちだが、実際には日本側の当初の計画では、攻撃開始の直前に宣戦布告の通告を行う段取りが組まれており、大使館側での事務手続きの遅れによって、結果的にこの通告が攻撃後になってしまったという経緯がある。もっとも、この経緯の解釈と評価については、今日でも見解が分かれている。

FAQ

Q. 真珠湾攻撃とはどんな出来事ですか?
A. 1941年12月7日、日本海軍がハワイの真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲した攻撃です。連合艦隊司令長官山本五十六が構想し、太平洋戦争開戦の契機となりました。

Q. なぜ山本五十六は真珠湾攻撃を計画したのですか?
A. アメリカの巨大な工業力を熟知していた山本は、長期戦になれば日本に勝ち目はないと考え、短期決戦でアメリカ艦隊に決定的な打撃を与え、交渉による講和に持ち込む以外に道はないと判断したためです。

Q. なぜ真珠湾攻撃は「だまし討ち」として批判されたのですか?
A. 当初の計画では攻撃直前に宣戦布告の通告を行う予定でしたが、大使館側での事務手続きの遅れにより、通告が攻撃開始後になってしまい、結果として宣戦布告なしの攻撃として受け止められたためです。

Q. 真珠湾攻撃の攻撃当日、艦隊にはどんな誤算がありましたか?
A. 最優先目標だったアメリカの空母がすでに出港しており真珠湾に不在であることが、攻撃直前に判明しましたが、艦隊はそのまま計画通り攻撃を実行しました。

まとめ

戦争を望まなかった提督が、誰よりも緻密にその開戦の一撃を計画し、そして見事に成功させてしまった。しかしその戦術的な成功こそが、彼が最も恐れていた長期戦への扉を開いた。勝利という言葉は、瞬間だけを切り取れば輝かしい。だが山本五十六が本当に見ていたのは、その先にある、もっと長い時間軸だった。

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