線路にわずかな量のダイナマイトを仕掛け、爆発させる。その威力があまりに弱かったため、爆発から数分後には、何事もなかったかのように列車がその上を通過していった。この些細な、そして自ら仕組んだ爆破工作が、やがて満州全土の占領、そして15年近くに及ぶ日中の戦争へとつながっていく。この記事では、満州事変がどのように仕組まれ、なぜこれほど大きな戦争の始まりとなったのかを見ていく。
定義
満州事変とは、1931年9月18日、南満州鉄道の線路上で発生した爆破事件をきっかけに、関東軍が満州(中国東北部)全土への軍事侵攻を開始した事件を指す。この爆破は、後の東京裁判において、関東軍の一部将校らによる完全な自作自演であったことが確認されている。この事件を契機に日本は満州全土を占領し、翌1932年には傀儡国家「満州国」を樹立、これが1945年まで続く一連の戦争の、事実上の出発点となった。
具体例
満州事変の実像は、以下のような具体的な事実からうかがえる。
- 1931年9月18日夜、関東軍所属の将校が南満州鉄道の線路脇で小規模な爆破を実行した
- この爆発は威力が弱すぎたため線路を破壊するには至らず、数分後には列車がそのまま通過している
- 関東軍はこれを中国側の破壊工作だと主張し、翌日には近隣の中国軍兵営への攻撃を開始した
- 1932年、国際連盟が派遣したリットン調査団は、日本を侵略者と断定する報告書をまとめた
背景
日露戦争(1904〜05年)を経て、日本はすでに南満州鉄道の権益を獲得し、この地域に大きな経済的・戦略的な利害を持っていた。関東軍の一部将校、とりわけ板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐は、資源に富むこの地域を確保し、主権回復を目指す中国側の動きに対抗するため、満州全土の軍事的な掌握を密かに計画していく。
展開
仕組まれた爆破
1931年9月18日夜、関東軍独立守備隊の河本末守中尉は、奉天(現在の瀋陽)近郊にある南満州鉄道の線路脇で、少量のダイナマイトを爆発させた。しかしこの爆発は威力があまりに弱く、線路を実際に破壊するには至らず、数分後には別の列車がそのまま通過している。それにもかかわらず、関東軍はこれを中国側による破壊工作だと主張し、翌日には近隣の中国軍北大営への砲撃を伴う攻撃を開始した。約500人にまで増強された日本軍は、およそ1万人の中国軍守備隊を退けている。
急速な占領と不抵抗政策
数時間のうちに奉天と周辺の主要都市を占領した関東軍は、以後急速に満州全土へと軍事行動を拡大していった。当時、中国側の実権を握っていた蒋介石は、満州の指揮官張学良に不抵抗と撤退の方針を指示し、この問題の解決を国際連盟に委ねる姿勢を示している。しかしこの方針は、日本側の軍事行動をほとんど無抵抗のまま許す結果となった。
満州国の樹立とリットン報告書
1932年3月、日本は満州に「満州国」という傀儡国家を樹立し、清朝最後の皇帝溥儀を、名目上の元首として擁立した。中国からの提訴を受け、国際連盟はリットン伯爵を団長とする5人からなる調査団を派遣する。この調査団がまとめた「リットン報告書」は、日本を侵略者と断定し、満州国を正当な国家として認めないとする結論を示す一方、中国側のナショナリズムにも一定の責任があるとする、両論を含んだ内容となっていた。
国際連盟からの脱退
1933年、この報告書が国際連盟で正式に採択されると、日本代表団はこれに抗議して連盟の議場を退場し、以後、正式に国際連盟からの脱退を表明した。この決定によって、日本は国際的な孤立を深めていくことになるが、同時にこの一件は、国際連盟が実効性のある制裁措置を取れなかったという事実を、世界中の国々にさらけ出す結果ともなった。
15年戦争への序章
後の東京裁判では、この満州事変が「関東軍、より正確には特定の『若手将校』グループによる完全な捏造」であったことが、公式に確認されている。国際的な非難にもかかわらず何ら実効的な代償を払わなかったというこの成功体験は、日本の軍部をいっそう大胆にさせる結果を招いた。この事件を発端とする一連の軍事行動は、1937年の日中全面戦争へと発展し、最終的には1945年の終戦まで続く、長い戦争の時代の始まりとなった。
現代への影響
満州事変は、一国の軍部が、政府の正式な承認を経ないまま独断で軍事行動を起こし、それが結果として既成事実として追認されてしまうという、危険な前例を残した出来事として、今日でも歴史学の重要な研究対象であり続けている。またこの事件をめぐる国際連盟の対応の失敗は、後のドイツやイタリアによる侵略行為にも、国際社会が有効な制裁を科せないという教訓(あるいは悪しき前例)を与えることになった。この一連の経緯は、集団安全保障という理念が、実際の国家の野心を前にいかに脆弱でありうるかを、今も示し続けている。
よくある誤解
誤解①「満州事変は、日本政府の正式な承認のもとで計画された軍事行動だった」→ 実際は関東軍の一部将校による独断の計画だった
国家規模の軍事行動であることから、日本政府が正式に承認した計画だったと思われがちだが、実際にはこの事件は関東軍の一部将校が独断で計画・実行したものであり、後の東京裁判でも、日本政府の公式な承認を得ていない「完全な捏造」であったことが確認されている。
誤解②「南満州鉄道の爆破は、実際に大きな被害をもたらす攻撃だった」→ 実際は威力が弱く線路の破壊すら達成できなかった
「爆破事件」という名前の重大さから、実際に鉄道施設に深刻な被害を与えたと思われがちだが、実際にはこの爆発の威力はごくわずかで、線路を破壊するには至らず、爆発の数分後には列車がそのまま通過するほどの、形だけの工作にすぎなかった。
FAQ
Q. 満州事変とはどんな出来事ですか?
A. 1931年、関東軍が自ら仕組んだ鉄道爆破を口実に、満州全土への軍事侵攻を開始した事件です。翌年には傀儡国家「満州国」が樹立され、後の長い日中戦争の出発点となりました。
Q. なぜこの爆破は「自作自演」だったとされているのですか?
A. 東京裁判において、この爆破が関東軍の一部将校による計画的な捏造であり、日本政府の正式な承認を経ないまま実行されたことが、公式に確認されているためです。
Q. リットン報告書とはどんな内容でしたか?
A. 国際連盟が派遣した調査団による報告書で、日本を侵略者と断定し満州国を正当な国家として認めない一方、中国側のナショナリズムにも一定の責任があるとする、両論を含んだ内容でした。
Q. 満州事変はその後の歴史にどんな影響を与えましたか?
A. 国際連盟が実効的な制裁を科せなかったという前例を残し、日本の軍部をいっそう大胆にさせる結果となり、1937年の日中全面戦争へとつながる、長い戦争の時代の始まりとなりました。
まとめ
線路を壊すことすらできなかった、ごくわずかな爆発が、やがて満州全土の占領と、15年近くに及ぶ戦争の引き金になった。国際社会がこの捏造された口実を見抜きながらも、実効的な行動を起こせなかったという事実こそ、この事件が今日まで語り継がれる、最も重い教訓なのかもしれない。小さな嘘が見過ごされたとき、それがどれほど大きな代償を伴って世界に返ってくるかを、満州事変は静かに、しかし雄弁に物語っている。
