スペインの空位となった王座に、誰が座るか。この一見遠い国の王位継承問題が、フランスとプロイセンという2つの大国を、全面戦争へと引きずり込んでいく。そしてその最後の引き金を引いたのは、たった一通の電報の、わずかな文言の改変だった。この記事では、普仏戦争がどのように始まり、どのような結末を迎えたのかを見ていく。
定義
普仏戦争とは、1870年7月19日から1871年5月10日まで、フランス第二帝政とプロイセン王国を中心とするドイツ諸邦連合との間で戦われた戦争を指す。スペイン王位継承問題を発端に、プロイセン宰相ビスマルクによる巧妙な外交操作を経て開戦に至り、フランスの決定的な敗北と第二帝政の崩壊、そしてドイツ帝国の成立という、ヨーロッパの勢力図を根本から塗り替える結果をもたらした。
具体例
普仏戦争の展開は、以下のような具体的な出来事からうかがえる。
- 1868年、スペイン女王イサベル2世が革命によって退位し、王位が空位となった
- 1870年、この王位がプロイセン王家の縁戚にあたるレオポルト公に打診されたことで、フランスに強い危機感が広がった
- 同年9月2日のスダンの戦いで、フランス皇帝ナポレオン3世が10万の軍勢とともに捕虜となった
- 1871年5月10日、フランクフルト条約が締結され、フランスはアルザスとロレーヌの大部分を割譲した
背景
1866年の普墺戦争での勝利を経て、プロイセンはすでに北ドイツ連邦の盟主としての地位を確立していた。この勢力拡大は、大陸におけるフランスの伝統的な優位を脅かすものであり、両国の間には根深い緊張が存在していた。1868年、スペイン女王イサベル2世が革命によって退位すると、この空位となった王座をめぐる駆け引きが、両国の対立に新たな火種を持ち込むことになる。
展開
スペイン王位継承問題という発端
1870年、スペインの実質的な指導者フアン・プリムは、プロイセン王家の縁戚にあたるレオポルト・フォン・ホーエンツォレルン公にスペイン王位を打診した。この打診の背後には、ビスマルクによる働きかけがあったとされる。フランス皇帝ナポレオン3世は、東のプロイセンと西のスペインという、両側から挟撃されかねないこの事態に強い危機感を抱き、猛烈な外交圧力をかけた。フランス側の抗議を受け、レオポルトの候補辞退は7月9日に実現したものの、フランス駐プロイセン大使ベネデッティは、これだけでは満足せず、プロイセン王ヴィルヘルム1世自身に、今後もこのような候補擁立を二度と行わないという保証を、直接求めることを画策する。
エムス電報という決定打
7月13日、保養地バート・エムスに滞在していたヴィルヘルム1世は、この過剰な要求を拒否し、その顛末を電報でビスマルクに伝えた。ビスマルクはこの電報の文面を意図的に編集し、両者がより挑発的かつ屈辱的な形で互いを扱ったかのような印象を与える内容に書き換えて、これを新聞に公表する。この操作に激怒したフランス世論は開戦を強く求め、結局フランス側が7月19日、プロイセンに対して先に宣戦布告するという、ビスマルクが望んだ通りの展開が実現した。
スダンの戦いという転換点
開戦当初、フランス軍は数の上でも組織力の上でもプロイセン軍に劣り、戦局は瞬く間にドイツ側優位へと傾いていった。1870年9月2日、スダンの戦いでナポレオン3世自身が10万の軍勢とともに包囲され、捕虜となる。この報せを受けたパリでは民衆蜂起が起こり、立法府は解散されて共和政の樹立(第三共和政)が宣言された。
パリ包囲戦という苦難
皇帝の捕虜という事態にもかかわらず、フランス側はアルザス・ロレーヌの割譲を拒み、抵抗を続ける構えを見せた。しかし進軍を続けるプロイセン軍は、同年9月20日までにパリを完全に包囲し、以後4か月にわたる砲撃と包囲戦を展開していく。北部の都市アミアンは11月に、南部のオルレアンは12月に相次いで陥落し、パリ市民は深刻な食料不足に苦しめられることになった。1871年1月21日、パリはついに降伏し、翌28日には休戦協定が結ばれている。
フランクフルト条約という重い代償
1871年2月26日には暫定的な講和条約が結ばれ、同年5月10日、正式なフランクフルト条約が締結された。この条約によって、フランスはアルザス地方のほぼ全域と、メスを含むロレーヌ地方の一部を、ドイツ帝国へと割譲することになる。さらに50億フランという巨額の賠償金の支払いも課され、この支払いが完了するまで、フランス北部の一部地域はドイツ軍の占領下に置かれ続けた。この講和に先立つ1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間では、すでにヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が執り行われており、フランスにとっては敗戦の屈辱がさらに深まる結果となっている。
現代への影響
普仏戦争での敗北とアルザス・ロレーヌの喪失は、フランス国内に長く消えない復讐心を植え付けることになった。この失地回復への執念と、ドイツの勢力拡大を警戒するイギリスの思惑は、後の第一次世界大戦を引き起こす、根深い要因の一つとして数えられている。一方この戦争を通じてドイツ統一を実現したビスマルクは、以後20年近くにわたって、ヨーロッパの国際政治における圧倒的な発言力を保ち続けた。パリ包囲戦がもたらした深刻な困窮は、この戦争の直後に起きたパリ・コミューンという内乱の、重要な背景の一つにもなっている。
よくある誤解
誤解①「普仏戦争はプロイセン側が一方的にフランスへ侵攻した戦争だった」→ 実際は形式上フランス側が先に宣戦布告している
プロイセンによる侵略戦争として語られがちだが、実際にはエムス電報の内容に激怒したフランス側が形式上先に宣戦布告しており、これによってプロイセンは、ヨーロッパ諸国の目には「侵略を受けた被害者」として映るという構図が成立していた。
誤解②「フランスの敗北はスダンの戦いをもって完全に確定した」→ 実際はその後もパリを中心に4か月近い抵抗が続いた
皇帝の捕虜というあまりに劇的な出来事から、この時点で戦争が事実上終わったと思われがちだが、実際にはナポレオン3世の捕囚後もフランス側は抵抗を続け、パリが実際に降伏するまでには、さらに4か月近い包囲戦を要している。
FAQ
Q. 普仏戦争とはどんな戦争ですか?
A. 1870年から71年にかけて、フランス第二帝政とプロイセンを中心とするドイツ諸邦連合との間で戦われた戦争です。スペイン王位継承問題を発端に、フランスの決定的な敗北とドイツ帝国の成立という結果をもたらしました。
Q. なぜスペインの王位継承問題がフランスとプロイセンの戦争につながったのですか?
A. プロイセン王家の縁戚がスペイン王位に就くことで、フランスが東西から挟撃される事態を警戒したナポレオン3世が強く抗議し、この一件をめぐる外交交渉が、最終的にエムス電報事件を通じて開戦へとつながったためです。
Q. エムス電報とはどんな出来事ですか?
A. プロイセン国王とフランス大使との会談内容を伝えた電報の文面を、ビスマルクが意図的に編集してフランス側を挑発し、フランスからの先制宣戦布告を誘発した出来事です。
Q. フランクフルト条約はフランスにどんな代償を課したのですか?
A. アルザス地方のほぼ全域とロレーヌ地方の一部の割譲、そして50億フランの賠償金支払いを課し、支払い完了までフランス北部の一部をドイツ軍の占領下に置くという内容でした。
まとめ
スペインの空位となった王座をめぐる、一見遠い国の問題が、たった一通の電報の書き換えによって、両国を全面戦争へと導いてしまった。ナポレオン3世は捕虜となり、パリは4か月にわたる包囲に耐え、最終的にフランスは自国の領土の一部を失う屈辱を味わうことになる。この時に植え付けられた復讐心が、半世紀近くを経て、より大きな戦争の火種になっていくという事実は、一つの戦争の終わり方が、次の戦争の始まり方をどれほど左右しうるかを、静かに物語っている。
