共通の敵と戦うために手を組んだ2つの勢力が、その敵が去った途端、再び互いに銃口を向け合う。この記事では、国民党と共産党という2つの勢力が、いかにして協力と対立を繰り返しながら、最終的に中華人民共和国の建国と、台湾への分断という結末にたどり着いたのかを見ていく。
定義
中華人民共和国の成立史とは、1912年の中華民国建国後、国民党(中国国民党)と中国共産党という2つの勢力が、断続的な内戦を経て中国の支配権を争い、1949年10月1日、共産党側が勝利して中華人民共和国の建国を宣言するに至った、一連の歴史的過程を指す。敗れた国民党は約200万人の支持者とともに台湾へと退き、以後、中国大陸と台湾という2つの統治体制が並立する分断の起点となった。
具体例
この成立史の展開は、以下のような具体的な事実からうかがえる。
- 1912年、孫文によって国民党が結成され、清朝打倒を後押しした
- 1927年、蔣介石率いる国民党は共産党への弾圧に転じ、これが本格的な内戦の始まりとなった
- 1945年8月から10月にかけて、重慶で蔣介石と毛沢東による和平交渉が行われた
- 1949年10月1日、毛沢東は天安門広場から中華人民共和国の建国を宣言した
背景
1912年、辛亥革命による清朝崩壊後、孫文が結成した国民党は、当初は軍閥割拠状態にあった中国の統一を目指す勢力として台頭していった。しかし1925年の孫文の死後、党内の主導権を握った蔣介石は、1927年、それまで協力関係にあった共産党への弾圧に転じ、これが本格的な内戦の発端となる。1927年から1936年にかけて続いたこの内戦を通じて、共産党は国民党によって次第に追い詰められ、長征と呼ばれる長い退却を強いられた。しかし1937年の日本の本格的な侵攻を受け、両党は不安定ながらも抗日統一戦線を組み、1945年までこの協力関係を維持することになる。
展開
重慶での和平交渉
1945年8月、日本の降伏がほぼ確実となる中、蔣介石は毛沢東に統一に向けた協議を呼びかけた。アメリカ大使ハーレーの仲介のもと、両者は重慶で約2か月にわたる交渉を続け、国民議会の設置や市民的自由、地方選挙の実施といった原則については合意に至っている。しかし、中国各地の軍事的な支配権をめぐる駆け引きをめぐって、この合意は最終的に決裂してしまう。
内戦の再燃
和平交渉の決裂後、両党の対立は再び本格的な戦闘へと発展していった。アメリカとソ連という当時の両大国も、それぞれの立場からこの内戦に間接的に関与しており、この戦争は単なる国内対立にとどまらない、冷戦初期の国際情勢とも密接に絡み合う紛争となっていく。
決定的な軍事作戦
1948年11月から翌1949年1月にかけて行われた「平津戦役」は、この内戦における最後の大規模な軍事作戦となった。この戦いで共産党軍は北平(現在の北京)・天津・張家口において国民党軍を打ち破り、中国北部における決定的な勝利を収める。この時期、毛沢東は「一辺倒」と題した論文を発表し、ソ連との同盟を軸とする外交方針を打ち出してもいる。
建国宣言と台湾への退却
一連の軍事的な勝利を経て、1949年10月1日、毛沢東は天安門広場から中華人民共和国の建国を宣言し、首都は北平から改称された北京に置かれた。敗れた蔣介石は、約200万人の国民党支持者とともに台湾島へと退却し、金門島をめぐる古寧頭の戦いでは、人民解放軍の進撃を食い止めることに成功している。同年12月、蔣介石は台北を中華民国の臨時首都と宣言し、以後も自らの政府こそが中国の唯一正統な統治機関であると主張し続けた。
現代への影響
国共内戦の帰結として生まれた中華人民共和国と、台湾に退いた中華民国という2つの統治体制の並立は、今日に至るまで、東アジアの国際政治における最も重要な未解決の課題の一つであり続けている。この内戦の結末は、当時形成されつつあった冷戦構造の中で、中国がソ連陣営に接近する決定的な契機ともなり、以後数十年にわたる東アジアの地政学的な構図を大きく規定することになった。
よくある誤解
誤解①「国民党と共産党は、内戦を通じて一貫して敵対関係にあった」→ 実際は日本という共通の敵に対して協力関係を結んでいた時期もあった
両党が終始一貫して敵対していたと思われがちだが、実際には1937年から1945年にかけて、日本の侵攻という共通の脅威に対抗するため、両党は不安定ながらも抗日統一戦線を組んでおり、この協力関係は日本の敗戦とともに崩れ去っている。
誤解②「1949年の建国宣言をもって、国共内戦は完全に終結した」→ 実際は台湾をめぐる軍事的な緊張がその後も続いた
建国宣言をもってこの内戦が完全に終わったと思われがちだが、実際には金門島をめぐる戦闘のように、台湾の完全な統一を目指す人民解放軍の試みはその後も続いており、この軍事的な緊張は今日に至るまで、完全には解消されないまま残り続けている。
FAQ
Q. 中華人民共和国の成立史とはどんな歴史ですか?
A. 国民党と中国共産党が断続的な内戦を経て中国の支配権を争い、1949年、共産党側が勝利して中華人民共和国の建国を宣言するに至った、一連の歴史的過程です。
Q. なぜ重慶での和平交渉は決裂したのですか?
A. 国民議会の設置や市民的自由といった原則については合意に至ったものの、中国各地の軍事的な支配権をめぐる駆け引きで折り合いがつかず、最終的に決裂しています。
Q. なぜ蔣介石は台湾へ退いたのですか?
A. 1948年から49年にかけての一連の軍事的な敗北を経て、共産党軍が中国大陸のほぼ全域を掌握したため、蔣介石は約200万人の支持者とともに台湾島へ退き、そこで統治を続ける道を選びました。
Q. 中華人民共和国の建国はどのように宣言されたのですか?
A. 1949年10月1日、毛沢東が北京の天安門広場から正式に建国を宣言し、これによって中国大陸における新たな統治体制が確立されました。
まとめ
共通の敵を前に手を結んだ2つの勢力が、その敵が去った途端、再び互いに刃を向け合い、最終的には一つの国を2つに分かつ結末へとたどり着いた。この分断は、単なる過去の内戦の記憶にとどまらず、今日の東アジアの国際政治の中に、今なお生きた課題として存在し続けている。1949年10月1日の宣言は、一つの内戦の終わりであると同時に、別の長い対立の始まりでもあった。
