《死せる母親》(1889年、1890年刊行)は、ドイツの画家マックス・クリンガーによる銅版画で、連作『死について 第二部』の最終図版として制作された作品です。花冠をかぶり白い布に包まれた母親の亡骸の上に、裸の赤子が座り、こちらをじっと見つめています。この記事では、この静止した奇妙な光景がどのような意図で構想されたのか、そしてキリスト教美術の伝統をどのように読み替えているのかを解説します。
クリンガー《死せる母親》とは|基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | マックス・クリンガー |
| 制作年 | 1889年制作、1890年刷り |
| 技法・素材 | エッチング・彫版 |
| サイズ | 版面約45.7×35cm |
| 連作 | 『死について 第二部』(作品13番)第10図版 |
| ジャンル | 象徴主義版画 |
一言でいうと 《死せる母親》は、亡くなった母の遺体と、その上に座る無垢な赤子とを対比させることで、生と死が絶えず更新されていく人類の営みを、キリスト教美術の伝統的な図像を反転させながら描いた作品である。
制作背景|なぜこの作品は生まれたのか
版画家としてのクリンガー
クリンガーは1857年、ライプツィヒに生まれました。1877年にアカデミーを卒業したのち、デューラーやレンブラント、ゴヤ、ロプスといった過去の巨匠たちの版画を研究し、独自の幻想的な画風を確立していきます。1881年に発表した連作エッチング『手袋』は大きな成功を収め、クリンガーの名を一躍知らしめました。1883年から数年間パリに滞在したのち、1889年からはローマに拠点を移し、イタリア・ルネサンスの巨匠たちの作品に強い刺激を受けています。本作は、まさにこのローマ滞在の始まった年に制作されました。
『死について』連作の締めくくり
本作は、9点のエッチングからなる連作『死について 第二部』の最後を飾る第10図版として構想されました。同連作は死という主題を多角的に扱ったものであり、本作はその締めくくりとして、死んだ母と生まれたばかりの子という対照的な存在を並べることで、生命が絶えず引き継がれていくという救いを暗示しているとも解釈されています。
見どころ徹底解説

ピエタの反転
キリスト教美術には、聖母マリアが死せるキリストの遺体を抱くという「ピエタ」の伝統的な図像があります。本作はこのモチーフを反転させたものと解釈されています。すなわち、死んでいるのは母の側であり、キリストの茨の冠に相当する位置には花の冠が置かれ、キリストの代わりに、裸で無防備な赤子がその上に座っているのです。
静止した恐怖
本作には一切の動きが描かれていません。母は死に、子は完全に静止したまま、無表情に近い顔でこちらを見つめています。批評家の一人は、この作品を「物音ひとつ立たない不気味さにおいて恐ろしい」と評しており、見る者だけが母の死という事実を知っているという状況が、静止した画面にいっそう不穏な緊張感を与えています。
廟のような空間と侵入する森
母子が横たわる場所は、螺旋状に彫刻を施された柱を持つ、廟(びょう)を思わせる建築的な空間として描かれています。しかしその奥には暗い森が広がっており、蔦が柱を這い上るように描かれることで、内部と外部、人工と自然との境界が曖昧にされています。
評価と影響
クリンガーはこの時期、象徴主義を代表する版画家として国際的な評価を確立しつつありました。1889年にはベルギーの前衛芸術家集団「レ・ヴァン(20人会)」の年次展覧会に招かれて出品しており、パリでは詩人で批評家のジュール・ラフォルグがクリンガーの版画を熱心に擁護していたことも知られています。本作を含む『死について 第二部』は、アムスラー・アンド・ルタルト社によって1898年、100部限定で刊行されました。
実際に見るには
本作は連作版画として制作されているため、複数の美術館が異なる刷りを所蔵しています。ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アート、サンフランシスコ美術館、ハーバード美術館、メトロポリタン美術館などに所蔵作例があります。訪問前には各館の展示状況を公式サイトで確認することをおすすめします。
よくある誤解
誤解①「単なる不気味な死の寓意画」→ ピエタという宗教図像を意図的に反転させている
本作は表面的には不気味な死の場面のように見えますが、実際にはキリスト教美術の伝統的な図像「ピエタ」を意図的に反転させた、宗教的な象徴性を帯びた作品です。花の冠や裸の子どもという細部には、キリストの受難のイメージが重ねられています。
誤解②「単一の作品として制作された」→ 9点からなる連作の最終図版である
本作は独立した一枚の作品のように鑑賞されることが多いですが、実際には『死について 第二部』という9点からなる連作の第10図版(最終図版)として構想されました。連作全体の文脈の中で、死という主題の締めくくりとしての役割を担っています。
FAQ
Q. 何が描かれていますか?
A. 花の冠をかぶり白い布に包まれた母親の遺体と、その上に座り、こちらを見つめる裸の赤子の姿です。
Q. 作者はどんな画家ですか?
A. マックス・クリンガー(1857〜1920)。ドイツの象徴主義を代表する画家・版画家・彫刻家で、幻想的で寓意的な作品で知られます。
Q. なぜ母と子が対比的に描かれているのですか?
A. キリスト教美術の伝統的な図像「ピエタ」を反転させ、死んだ母と生まれたばかりの子を対比させることで、生と死が絶えず引き継がれていく人類の営みを示唆しているとされています。
Q. どこで見られますか?
A. 版画として複数の美術館に所蔵されており、ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートやメトロポリタン美術館などで見ることができます。訪問前に各館の展示状況をご確認ください。
まとめ
《死せる母親》は、ピエタという宗教的な図像を反転させることで、死と生とが絶えず隣り合わせに存在するという事実を、静止した緊張感の中に描き出した作品です。母の亡骸の上でこちらを見つめる無防備な赤子の視線には、答えの出ない問いが、今なお消えることなく宿り続けています。
