《聖アントワーヌの誘惑》(1878年)は、ベルギーの画家フェリシアン・ロプスによるパステル画で、ベルギー王立図書館が所蔵する作品です。十字架にかけられているのはキリストではなく、裸の女性。その光景に恐れおののく聖アントワーヌの姿が描かれています。この記事では、この絵に込められた反教権主義的なメッセージと、フロイトも言及したというその衝撃的な構図について解説します。
ロプス《聖アントワーヌの誘惑》とは|基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | フェリシアン・ロプス |
| 制作年 | 1878年 |
| 技法・素材 | パステル、グアッシュ、鉛筆・紙 |
| サイズ | 73.7×54.4cm |
| 所蔵 | ベルギー王立図書館 |
| ジャンル | 象徴主義絵画 |
| 連作 | 『サタニック』シリーズ |
一言でいうと 《聖アントワーヌの誘惑》は、十字架からキリストを取り除き、代わりに裸の女性を据えるという大胆な構図によって、聖アントワーヌの誘惑という伝統的な主題を反教権主義的な寓意へと作り変えた作品である。
制作背景|なぜこの作品は生まれたのか
ボードレールとの出会いが導いた道
ロプスは1833年、ベルギーのナミュールに生まれました。裕福な家庭に育ち、ブリュッセル自由大学で法律を学ぶかたわら、絵画の技術を磨いています。1864年、晩年のシャルル・ボードレールと出会ったことが、ロプスの画業に決定的な影響を与えました。ボードレールの詩集『漂着物』の口絵を手がけたことをきっかけに、テオフィル・ゴーティエやステファヌ・マラルメといった象徴主義・デカダン派の作家たちから高い評価を受けるようになり、性と死、悪魔的なイメージが交錯する独自の作風を確立していきます。
『サタニック』という連作の中で
本作は、ロプスが女性の魔性の力を描いた一連の作品群『サタニック』の一枚として制作されました。ロプス自身は本作について「悪魔は聖アントワーヌを困らせるために、十字架からキリストを取り除き、そこに裸の女性を貼り付けた。淫らな欲望にとらわれた聖アントワーヌは祈祷台へと駆け寄るが、恐れおののいて後ずさりする。豚もまた呆然としている」と記しています。1884年、ベルギーの前衛芸術家集団「20人会」の展覧会に招かれた際、本作は初めて公に展示され、来場者の間で大きな話題となりました。
見どころ徹底解説

十字架に架けられた裸の女性
画面中央、本来キリストの姿があるはずの十字架には、赤髪をなびかせた裸の女性が架けられています。彼女の頭上には「EROS」の文字が掲げられており、これがキリスト教の受難の象徴を、官能と欲望の象徴へと置き換えたものであることを明確に示しています。
恐れおののく聖アントワーヌ
画面左には、この光景に恐れおののく聖アントワーヌの姿が描かれています。彼の伝統的な守護動物とされる豚も傍らに描かれ、中世以降、不純と悪徳の象徴、悪魔の化身として扱われてきたこの動物もまた、呆然とした様子でこの場面を見つめています。
フロイトが言及した「サヴィオワールの座を奪う女」
精神分析学者ジークムント・フロイトは、本作に描かれた「ファム・ファタール」について「フェリシアン・ロプスだけが、彼女に十字架上の救世主の座を奪わせた」と評したと伝えられています。19世紀末のヨーロッパで広く共有されていた、女性の性を脅威と捉える視線が、この評言にも表れています。
評価と影響
本作は、キリスト教会の因習や権威に対して強い反発を抱いていたロプスの姿勢を象徴する作品として位置づけられています。制作当初はエドモン・ピカールが所有し、その後シャルル・ドラフォスの手を経て、ロプス研究者エラステーヌ・ラミロ(本名ウジェーヌ・ロドリゲス゠エンリケス)のコレクションに加わりました。1962年、ベルギー王立図書館がモン・デ・ザール地区の新館開館を前にこの作品を収蔵し、現在に至っています。同時期に制作された習作は、パリのマルモッタン・モネ美術館にも所蔵されています。
実際に見るには
ベルギー王立図書館の所蔵作品です。訪問前には開館日・展示状況を公式サイトで確認することをおすすめします。
よくある誤解
誤解①「単なる扇情的な作品として描かれた」→ 教会の権威への批判が込められている
本作は表面的には官能的な描写が目立ちますが、ロプス自身がキリスト教会の因習に強い反発を抱いていた人物であったことを踏まえると、本作は単なる扇情的な作品ではなく、教会や聖職者の権威に対する批判的なメッセージを込めた作品として理解されています。
誤解②「本作が唯一の『聖アントワーヌの誘惑』」→ 同名の関連作品が複数存在する
ロプスは同じ主題を扱った作品を複数手がけており、ナミュールのロプス美術館には『百の軽やかなスケッチ』と呼ばれる連作の一枚として、同名の別の小品も所蔵されています。「聖アントワーヌの誘惑」という題名の作品は一点にとどまりません。
FAQ
Q. 何が描かれていますか?
A. 十字架にかけられた裸の女性と、その光景に恐れおののく聖アントワーヌ、そして傍らで呆然とする豚の姿です。
Q. 作者はどんな画家ですか?
A. フェリシアン・ロプス(1833〜1898)。ベルギーの画家・版画家で、ボードレールとの交流を通じて象徴主義・デカダン派の作風を確立しました。
Q. なぜキリストの代わりに女性が描かれているのですか?
A. ロプス自身の説明によれば、悪魔が聖アントワーヌを困らせるために、十字架からキリストを取り除き、裸の女性を据えたという設定に基づいています。教会の権威への反発が背景にあります。
Q. どこで見られますか?
A. ベルギー王立図書館です。訪問前に公式サイトで開館状況を確認することをおすすめします。
まとめ
《聖アントワーヌの誘惑》は、十字架からキリストを取り除くという大胆な発想によって、聖人の誘惑という伝統的な主題を教会批判の寓意へと転換した作品です。恐れおののく聖アントワーヌと、呆然とする豚の姿を見つめていると、ロプスがこの絵に込めた挑発の鋭さが、今なお色あせずに伝わってきます。
