《バッカス》とは|忘れられた祭壇画の中に隠されていた、若き日のカラヴァッジョの顔を追う

葡萄の葉と実で作られた冠をかぶった若者が、けだるげに体を横たえながら、ワインの入った浅い杯をこちらへ差し出しています。その視線はどこか気だるく、誘うようでもあります。《バッカス》(1596〜97年頃)は、イタリア・バロックを代表する画家カラヴァッジョによる油彩画で、フィレンツェのウフィツィ美術館が所蔵しています。神話の酒神を描いたこの作品は、長らく倉庫の片隅で忘れ去られていたという数奇な経緯を持ち、しかもそのワイン瓶の反射の中には、画家自身の隠された自画像が潜んでいることが後年になって明らかになっています。

目次

基本情報

作者:カラヴァッジョ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1571〜1610)
制作年:1596〜97年頃
技法・素材:油彩・カンヴァス
サイズ:約95×85cm
所蔵:ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
依頼主:枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテ
発見:1913年、ウフィツィの倉庫にて未整理のまま発見

一言でいうと

《バッカス》は、葡萄の葉と実の冠をかぶり、ゆったりとした白い衣をまとった若者が、石のテーブルを前に体を横たえながら、ワインの杯を鑑賞者へと差し出す姿を描いた作品です。神話の酒神という主題でありながら、カラヴァッジョはこの人物を理想化することなく、当時ローマの街角や酒場ですれ違うような、生身の若者として描いています。

制作背景

この絵は、カラヴァッジョが1596年、自身にとって最初の重要なパトロンとなる枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテのもとに身を寄せ、パラッツォ・マダマに移り住んだ直後に描かれたものです。カラヴァッジョはその後5年間、この枢機卿の客人として暮らしました。この絵は枢機卿からトスカーナ大公フェルディナンド1世デ・メディチへの贈り物として制作されたと考えられています。

石のテーブルには、果物を盛った鉢と、大きなワインの水差しが置かれています。果物の一部はすでに傷み始めているようにも見え、若さと同時に朽ちていく運命を暗示しているという解釈もあります。カラヴァッジョはこの絵において、背景の風景をほとんど排し、人物そのものの生々しさに焦点を絞り込んでいます。こうした、飾らない・洗練されていない被写体を好んで描く姿勢は、生前のカラヴァッジョに対する批判の一因ともなりました。

見どころ

理想化されない酒神

古代神話の酒神といえば、通常は理想化された美しい肉体で描かれるものですが、この絵のバッカスは、頬を紅潮させ、どこか俗っぽい表情を浮かべた、街中で見かけるような若者の姿で描かれています。この率直さこそが、カラヴァッジョの作風を特徴づける要素です。

ワイン瓶に隠された自画像

1913年、この絵が修復された際、歴史家マッテオ・マランゴーニは、テーブルの上のワインの水差しに映り込む反射の中に、小さな人物の姿があることに気づきました。近年の多分光反射分光法(マルチスペクトル・リフレクトグラフィー)による分析でも、絵筆を手にイーゼルの前に立つ、25歳前後と見られる巻き毛の若者の姿がこの反射の中に確認されており、これがカラヴァッジョ自身の自画像である可能性が高いとされています。

鏡を使った制作技法

美術史家の中には、カラヴァッジョがこの絵を含む一連の作品を、鏡を用いた原始的な写真技術のような方法で描いていたと指摘する声もあります。バッカスが左手で杯を持っている、やや不自然に見える描写も、こうした鏡越しの観察に由来しているのではないかと考えられています。

評価と受容

この絵は長らく所在が分からなくなっていました。1913年、ウフィツィの倉庫の中で、カタログにも記載されず額装もされないまま眠っていたこの作品が発見され、美術史家ロベルト・ロンギによってカラヴァッジョの真作と鑑定されました。美術史家ドナルド・ポズナーは、この絵に漂う同性愛的な雰囲気について、依頼主であった枢機卿デル・モンテ自身の性的指向と、彼の周辺にいた若い男性たちとの関係を反映しているのではないかとも指摘しています。なおカラヴァッジョには、これとは別に、青白い顔色の自らを酒神として描いた《病めるバッカス》という作品(現在はローマのボルゲーゼ美術館所蔵)もあり、両者は制作年代も表現の方向性も異なる別々の作品として区別されています。

よくある誤解

誤解①「この絵はカラヴァッジョの生前から広く知られる代表作だった」→ 実際は1913年まで存在すら忘れられていた
ウフィツィという名だたる美術館の所蔵品であることから、常に高く評価され続けてきた作品だと思われがちですが、実際にはこの絵は長年倉庫に埋もれたまま忘れ去られており、20世紀に入ってようやく再発見・再評価されました。

誤解②「この絵はローマのボルゲーゼ美術館にある《病めるバッカス》と同じ作品である」→ 実際は制作時期も表現も異なる別の作品である
どちらもバッカスを主題にした自画像的要素を持つ作品のため混同されがちですが、実際にはウフィツィのこの絵と、ボルゲーゼ美術館の《病めるバッカス》は、別々の時期に描かれた異なる作品です。

FAQ

Q. 《バッカス》とはどんな作品ですか?
A. カラヴァッジョが1596年から97年頃に手がけた油彩画で、葡萄の冠をかぶり、ワインの杯を差し出す若き酒神バッカスの姿を描いています。ウフィツィ美術館が所蔵しています。

Q. なぜこの絵は長い間知られていなかったのですか?
A. 完成後どこかの段階で所在が分からなくなり、1913年にウフィツィの倉庫内で未整理のまま発見されるまで、カタログにも記載されていませんでした。

Q. ワインの水差しに映る自画像とは何ですか?
A. 修復や科学分析によって、水差しの反射の中に、絵筆を持ちイーゼルの前に立つ若い男性の姿が確認されており、これがカラヴァッジョ自身の隠された自画像だと考えられています。

Q. 《バッカス》はどこで見られますか?
A. イタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館が所蔵しています。

まとめ

倉庫の隅で何十年も忘れ去られていた一枚の絵が、修復の過程で偶然、画家自身の隠れた顔まで明かすことになったという経緯は、まるで絵そのものが長い眠りから静かに目覚めたかのようです。理想化されない酒神の視線と、ワイン瓶の奥にひそむ小さな自画像――この二重の発見が、《バッカス》を単なる神話画以上の一枚にしています。

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