わずか14年間しか存在しなかった、しかも3度も本拠地を移し、最後はナチスの弾圧を受けて自ら幕を閉じた一つの学校。それにもかかわらず、この学校が確立した理念は、今日の私たちが目にするあらゆるデザインの原点であり続けている。この記事では、バウハウスがどのように誕生し、なぜこれほど短い期間でこれほど大きな影響を残すことになったのかを見ていく。
定義
バウハウスとは、1919年、建築家ヴァルター・グロピウスによってドイツ・ワイマールに設立された、造形芸術の学校を指す。美術と工芸の統合を掲げ、あらゆる分野の芸術に垣根を設けないという理念のもと、工房を中心とした実践的な教育を展開した。この学校は1925年にデッサウへ、さらに1932年にはベルリンへと本拠地を移しながら存続を続けたが、1933年、ナチス政権の圧力を受けて閉鎖され、わずか14年間の歴史に幕を下ろすことになった。
具体例
バウハウスの実像は、以下のような具体的な事実からうかがえる。
- 1919年、グロピウスはワイマール大公立美術工芸学校とワイマール美術アカデミーを統合し、バウハウスを設立した
- 1925年、ワイマールの保守化する政治情勢を受け、学校はデッサウへと移転した
- 1932年、デッサウ市議会で最大勢力となったナチ党の圧力を受け、学校はベルリンへと再移転を余儀なくされた
- 1933年、教員たち自身の投票によって、学校の閉鎖が決定された
背景
第一次世界大戦の傷跡が残る1919年、グロピウスは「芸術は社会的な役割を果たすべきであり、工芸を基盤とする各分野の間に区別があってはならない」という理念を掲げ、この新しい学校を設立した。表現主義芸術や、建築家フランク・ロイド・ライト、デザイナーのウィリアム・モリスの思想に影響を受けたこの学校は、机上の理論ではなく、実践的な創作活動と学生一人ひとりの個性の発展を重視する教育方針を採用していた。
展開
ワイマール時代という出発点
創設初期のバウハウスでは、パウル・クレーやワシリー・カンディンスキー、ヨーゼフ・アルバースといった著名な芸術家たちの指導のもと、造形芸術に重点が置かれていた。しかし1925年、ワイマールの政府が右傾化し、学校への助成が削減されると、バウハウスはより支援的な姿勢を示していたデッサウへと本拠地を移すことになる。
デッサウでの黄金期
デッサウでは、グロピウス自身が設計した「バウハウス・ビルディング」が1926年に完成し、この学校の理念を体現する新たな拠点となった。1927年には建築学科が正式に設立され、スイス人建築家ハンネス・マイヤーが学科長に就任している。翌1928年、グロピウスが学長を辞任すると、マイヤーがその後を継いだ。彼は経費削減策を通じて学校を初めて黒字化させる手腕を発揮したが、その左派的、共産主義的な政治姿勢は学内に深刻な対立を招き、著名な教員たちの離脱にもつながった。1930年、マイヤーはこの共産主義的な傾向を理由に解任される。
ミース・ファン・デル・ローエによる転換
グロピウスの仲介を経て、建築家ミース・ファン・デル・ローエが新たな学長に就任した。彼はカリキュラムを建築・仕上げ・織物・写真・造形美術の5学科に再編し、修業年限を5学期に短縮するなど、より学術的な体制へと改革を進めていった。彼は学校を政治的な論争から切り離そうと、あえて非政治的な姿勢を貫こうとし、この方針の一環として、前学長マイヤーの支持者を学校から排除する措置も取っている。
ナチスの圧力と閉鎖
しかし1931年11月、デッサウの市議会選挙でナチ党が最大勢力となり、彼らはバウハウスへの助成金打ち切りと校舎の解体を主要な公約の一つに掲げていた。1932年、デッサウ市議会はついにバウハウスの閉鎖を決議し、学校はベルリンの旧電話工場の建物へと移転を余儀なくされる。ここでは、より小規模な私立機関として存続を図ったが、1933年、ヒトラーが首相に就任すると、ゲシュタポが校舎を捜索して学生の一部を逮捕する事態にまで発展した。政府はカリキュラムをナチスの理念に沿うよう改変しようと試みたが、教員たちはこれに協力することを拒み、自らの投票によって学校の閉鎖を決定した。こうして1919年から1933年まで、わずか14年間の歴史をもって、バウハウスはその幕を閉じることになった。
亡命を経た遺産の継承
学校の閉鎖後、著名な教員たちは相次いでヨーロッパを離れた。ヨーゼフ・アルバースは1933年にアメリカへ、カンディンスキーは同年フランスへ、クレーは同年スイスへ、それぞれ亡命している。グロピウス自身も1937年にアメリカへ渡り、ハーバード大学デザイン大学院で教鞭を執り、国際様式の建築をアメリカへ広める上で中心的な役割を果たした。1938年にはニューヨーク近代美術館で大規模なバウハウス回顧展が開催されている。
現代への影響
バウハウスが確立した、機能性と美しさを両立させるデザイン理念と、垣根のない総合的な芸術教育のあり方は、今日の建築・工業デザイン・グラフィックデザインに至るまで、あらゆる分野に影響を残し続けている。亡命した教員たちを通じて、この理念はヨーロッパを越えてアメリカへと広まり、20世紀を通じて世界中のデザイン教育の基盤となっていった。わずか14年という短い期間でこれほど広範な影響を残したという事実は、この学校が単なる一つの教育機関ではなく、一つの時代を象徴する理念そのものだったことを物語っている。
よくある誤解
誤解①「バウハウスは常に一つの場所で、一貫した体制のもとで存続し続けた」→ 実際は3つの都市を転々とし、指導者も3度交代している
「バウハウス」という一つの名前から、安定した単一の学校として存続していたと思われがちだが、実際にはワイマールからデッサウ、そしてベルリンへと3度にわたって本拠地を移し、グロピウス・マイヤー・ミース・ファン・デル・ローエという3人の学長のもとで、それぞれ異なる方針のもとに運営されていた。
誤解②「バウハウスはナチス政権によって一方的に閉鎖に追い込まれた」→ 実際は最終的に教員たち自身の投票によって閉鎖が決定された
ナチスによる圧力があまりに大きかったことから、一方的に閉鎖を命じられたと思われがちだが、実際には最終段階において、ナチス政権に協力するくらいなら自ら閉じることを選ぶという、教員たち自身の投票による決定を経て、この学校は幕を閉じている。
FAQ
Q. バウハウスとはどんな学校ですか?
A. 1919年、建築家グロピウスによってワイマールに設立された造形芸術の学校です。美術と工芸の統合を掲げ、工房を中心とした実践的な教育を通じて、機能性と美しさを両立させるデザイン理念を確立しました。
Q. なぜバウハウスは本拠地を何度も移したのですか?
A. ワイマールでは右傾化する政府による助成削減を受けてデッサウへ、デッサウではナチ党の台頭による閉鎖の圧力を受けてベルリンへと、それぞれ政治的な情勢の変化に押される形で移転を繰り返しました。
Q. バウハウスはどのように閉鎖されたのですか?
A. 1933年、ヒトラーの政権掌握を受けてゲシュタポが校舎を捜索し学生を逮捕する事態に発展し、教員たちが自らの投票によって、学校の閉鎖を決定しました。
Q. バウハウスの教員たちはその後どうなったのですか?
A. アルバース・カンディンスキー・クレー・グロピウスをはじめとする多くの教員が、アメリカやフランス、スイスなどへ亡命し、その理念を各地のデザイン教育に広めていきました。
まとめ
3つの都市を転々とし、3人の学長のもとで方針を変えながらも、わずか14年という短い時間しか与えられなかった学校が、今日の私たちの身の回りにあるほぼすべてのデザインの原型を作り上げた。ナチスの圧力に屈するのではなく、自ら幕を引くという教員たちの最後の選択は、この学校が最後まで自らの理念に忠実であり続けたことを、何より雄弁に物語っている。
