名誉革命とは|流血なく議会が王を選んだ1688年を徹底解説

一人の王が、戦うことも降伏することもなく、ただ国を去っただけで終わった革命がある。1688年、イングランドではカトリックの国王が退けられ、代わってプロテスタントの娘とその夫が王位に就いたが、この一連の政変には、目立った戦闘も国民的な蜂起もほとんど伴わなかった。この記事では、「名誉革命」と呼ばれるこの出来事が、どのように進み、そしてなぜこれほど平和に権力が移行できたのかを見ていく。

目次

定義

名誉革命とは、1688年から1689年にかけて、イングランドでカトリック教徒の国王ジェームズ2世が退位を余儀なくされ、その娘メアリーと、彼女の夫であるオランダのオラニエ公ウィレムが、共同統治者として王位に迎え入れられた政変を指す。目立った戦闘を伴わずに進行したことから「無血革命」とも呼ばれ、この革命を通じて議会の権限が大幅に強化され、絶対王政から立憲君主制への移行が決定的なものとなった。

具体例

名誉革命の展開は、以下のような具体的な事実からうかがえる。

  • 1688年6月10日、ジェームズ2世に息子ジェームズ・フランシス・エドワードが誕生し、カトリック王朝の永続が現実味を帯びた
  • 同年6月30日、7人のプロテスタント貴族がオラニエ公ウィレムにイングランドへの介入を要請した
  • 同年11月5日、ウィレムはトーベイに上陸し、翌12月、ジェームズ2世は国外へ逃亡した
  • 1689年2月、議会は「権利の宣言」を通じてウィリアムとメアリーに王位を提示し、後にこれは正式な「権利の章典」として成文化された

背景

1685年に即位したジェームズ2世は、カトリック教徒でありながら、プロテスタントが大多数を占めるイングランドを統治するという、当初から緊張をはらんだ立場にあった。彼はカトリック教徒を要職に登用し、1687年には「信仰寛容宣言」を通じて、非国教徒とカトリック教徒への刑罰を停止させるなど、自らの信仰に基づいた統治を推し進めていく。1688年には、この宣言をすべての聖職者に教会で読み上げるよう命じ、これに抗議したカンタベリー大主教を含む7人の主教が投獄される事態にまで発展した(この主教たちは裁判で無罪となり、ロンドン市民の歓喜を呼んでいる)。当初、ジェームズの後継者はプロテスタントである娘メアリーとされており、国民の多くはこれを心の拠り所にしていた。しかし1688年6月10日、ジェームズの2番目の妻が男子を出産すると、カトリック王朝が永続する可能性が現実のものとなり、プロテスタント層の間に強い危機感が広がっていった。

展開

オラニエ公への招請

1688年6月30日、危機感を強めた7人のプロテスタント貴族は、ジェームズの娘メアリーの夫であり、自身もプロテスタントだったオラニエ公ウィレムに、軍を率いてイングランドへ来るよう秘密裏に要請した。ウィレムはこの招請に応じることを決意し、同年11月5日、大軍を率いてデヴォン州トーベイに上陸する。

崩れゆく支持基盤

ウィレムの上陸を受け、ジェームズ側からの離反が相次いだ。軍の有力な士官(後の初代マールバラ公チャーチルを含む)が次々とウィレム側へ寝返り、驚くべきことに、ジェームズ自身の娘アンまでもが父を見限る事態となった。5万3000人の常備軍を擁していたにもかかわらず、ジェームズは次第に孤立を深めていく。同年12月、彼はロンドンからの脱出を試み、一度はケント州の漁師たちに捕らえられたものの、あえて緩やかな監視のもとに置かれ、12月23日、結局フランスへの亡命に成功した。

王位の平和的な移行

ジェームズの逃亡を受け、1689年1月、「コンヴェンション議会」と呼ばれる特別な議会が招集された。同年2月、議会は「権利の宣言」を通じて、ウィリアムとメアリーの2人を共同統治者として王位に迎える提案をまとめ、両者はこれを受け入れて、同年4月に戴冠する。この過程で、王位継承の伝統的な原則そのものが実質的に放棄され、王権は財政面で議会に強く依存する形へと作り変えられていった。

権利の章典という到達点

新たに即位したウィリアムとメアリーは、「権利の宣言」に自ら署名し、これは後に正式な法律「権利の章典」として制定される。この章典は、定期的な議会の開催、自由な選挙、議会内での言論の自由を保障するとともに、不当かつ異常な刑罰の禁止といった個人の権利も明記し、あわせてジェームズ2世が犯した数々の不正行為を明確に非難する内容を含んでいた。

現代への影響

名誉革命は、イングランドの統治のあり方を、絶対王政から立憲君主制へと決定的に転換させた出来事として、今日でも高く評価されている。この革命を通じて確立された「議会主権」の原則は、以後のイギリス政治の基本的な枠組みとして定着し、後のアメリカ独立宣言や合衆国憲法にも、その理念的な影響を残している。もっともウィレムがイングランドの王位を得た背景には、フランスのルイ14世との対抗という、彼自身の政治的な思惑も存在しており、即位後まもなく彼はイングランドをフランスとの九年戦争(1688〜1697年)へと引き込むことになった。ジェームズ2世自身は、その後もフランスで亡命生活を送り、1701年にこの地で世を去っている。

よくある誤解

誤解①「名誉革命は、まったく暴力を伴わない完全に平和な政変だった」→ 実際は各地で反カトリック的な暴動が発生していた

「無血革命」という呼び名から、暴力とは無縁の出来事だったと思われがちだが、実際にはウィレムのロンドン進軍中、各地でカトリック教徒の家屋や礼拝堂が襲撃される事件が起きており、完全に無血だったわけではない。それでも、王位をめぐる本格的な戦闘や全国規模の蜂起がなかったという意味では、当時としては極めて平和的な政権移行だったと言える。

誤解②「ウィリアムはイングランドの王位を、純粋な信仰上の使命感から引き受けた」→ 実際はフランスとの対抗という政治的な計算も強く働いていた

プロテスタントの守護者としての使命感だけで行動したと思われがちだが、実際にはウィレムは、フランス王ルイ14世の勢力拡大に対抗するため、イングランドの資源と軍事力を必要としており、即位後まもなくイングランドをフランスとの戦争に引き込んでいることからも、この判断には強い政治的な計算が働いていたことがうかがえる。

FAQ

Q. 名誉革命とはどんな出来事ですか?
A. 1688年から1689年にかけて、イングランドでカトリックの国王ジェームズ2世が退位を余儀なくされ、その娘メアリーと夫ウィリアムが共同統治者として即位した政変です。目立った戦闘を伴わずに進行しました。

Q. なぜジェームズ2世は退位に追い込まれたのですか?
A. カトリック教徒優遇の政策への反発が高まっていたところに、1688年、彼にカトリックの後継者となる息子が生まれたことで、プロテスタント層の危機感が頂点に達し、貴族たちがウィリアムに介入を要請したためです。

Q. 権利の章典とはどんな法律ですか?
A. 1689年に制定された法律で、定期的な議会の開催、自由な選挙、議会内での言論の自由、個人の権利保護などを定め、ジェームズ2世の不正行為を明確に非難する内容を含んでいました。

Q. 名誉革命は本当にまったく血が流れなかったのですか?
A. 王位をめぐる本格的な戦闘こそなかったものの、ウィリアムの進軍中には反カトリック的な暴動が各地で発生しており、完全に無血だったわけではありません。

まとめ

戦うことも降伏することもなく、ただ国を去るという選択肢を残されたジェームズ2世の姿は、それまでの王権のあり方が、もはや議会という新たな権力を無視できなくなっていたことを物語っている。「名誉」という響きの良い名前がつけられたこの革命は、しかし完全に無血だったわけでも、純粋な信仰の勝利だったわけでもない。それでもなお、この出来事が議会主権という新しい原則を確立し、後の立憲主義の礎になったという事実だけは、揺るがない。

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