一枚の絵が審査員に落とされたことが、やがて近代美術そのものの姿を変えることになる。19世紀のパリでは、国家公認の展覧会「サロン」に選ばれるかどうかが、画家としての生死を分けるほどの重みを持っていた。しかし1863年、あまりに多くの作品が落選したことへの抗議から生まれた「落選展」が、皮肉にもその後の美術史における決定的な転換点となる。この記事では、サロンという制度がどのように機能し、なぜ、どのようにして崩れていったのかを見ていく。
定義
サロンとは、フランスのアカデミー(王立絵画彫刻アカデミー、後に美術アカデミー)が主催した公式の美術展覧会を指し、19世紀を通じてフランス国内で唯一といってよいほどの影響力を持つ美術展だった。1863年、このサロンの審査があまりに厳しく、大量の作品を落選させたことへの抗議を受け、皇帝ナポレオン3世の命によって、落選作品を展示する「落選展(サロン・デ・ルフュゼ)」が特別に開催されている。
具体例
サロンとその制度の変遷は、以下のような具体的な出来事からうかがえる。
- サロンは18世紀半ばまでには審査員制度を導入し、8週間の会期中に50万人もの来場者を集める、社会的な一大イベントとなっていた
- 1863年、サロンの審査員は提出された作品のおよそ3分の2、約3000点を落選とした
- 同年、マネの《草上の昼食》が落選展で展示され、大きなスキャンダルを巻き起こした
- 1874年、サロンとは無関係に、印象派の画家たちによる最初の独立展覧会が写真家ナダールのスタジオで開催された
背景
サロンの起源は、王立絵画彫刻アカデミーの卒業生たちによる作品発表の場という、比較的単純な出発点にあった。しかし時代を経るにつれてその規模と社会的な影響力は増大し、審査員による選抜制度が導入されて以降は、選に漏れることが画家としてのキャリアに深刻な打撃を与えるほどの、絶大な権威を持つようになっていった。審査員たちは、緻密に仕上げられ、写実的で伝統的な構図を持つ作品を高く評価する傾向にあり、これに合致しない前衛的な作風の作品は、しばしば冷遇されていた。
展開
1863年の危機
1863年、サロンの審査は例年にも増して厳格なものとなり、提出された5000点を超える作品のうち、実に3分の2にあたる約3000点が落選とされた。この中には、マネ、ホイッスラー、セザンヌ、ピサロといった、後に美術史に名を残すことになる画家たちの作品も含まれていた。落選した画家たちとその支援者たちの怒りは大きく、この抗議の声は、当時の皇帝ナポレオン3世の耳にまで届くことになる。
皇帝の決断と落選展の開催
世論に敏感だったナポレオン3世は、「陛下は、この不満の正当性を公衆自身に判断させたいと望まれ、落選した作品を美術宮の別の一角に展示することを決定された」という声明を発表した。こうして、通常のサロンと隣接する形で「落選展(サロン・デ・ルフュゼ)」が開催されることになる。落選という汚名を恐れて出品を辞退した画家たちも少なくなかったが、それでも数百人が参加し、この展覧会は大規模なものとなった。
マネの《草上の昼食》というスキャンダル
落選展で最大の話題となったのは、エドゥアール・マネの《草上の昼食》だった。衣服をまとった2人の男性と、裸の女性たちが野外で食事をするというこの構図は、女性の裸体そのものよりも、それが神話的な文脈ではなく、明らかに同時代の日常的な場面として描かれていたことが、鑑賞者に強い衝撃を与えた。画中の裸の女性が、鑑賞者に向かって正面から視線を投げかけているという描写も、当時としては極めて挑発的なものと受け止められている。批評家たちからは酷評される一方、この展覧会には1日あたり1000人を超える来場者が詰めかけた。もっとも、その多くは作品を嘲笑うために訪れた人々でもあった。
独立展覧会への道
落選展という出来事は一度限りの特例だったが、既存の権威に頼らず作品を発表するという発想そのものは、その後の世代の画家たちに大きな影響を与えることになる。1874年4月15日、サロンとは完全に独立した形で、「画家・彫刻家・版画家等匿名協会」を名乗る一群の画家たちが、写真家ナダールの旧スタジオで自主的な展覧会を開催した。モネ、ルノワール、ドガ、モリゾ、ピサロ、シスレー、セザンヌといった顔ぶれによるこの展覧会は、批評家ルイ・ルロワによって、モネの出品作《印象・日の出》にちなみ、皮肉を込めて「印象派」と呼ばれるようになる。この展覧会の来場者数はわずか3500人程度にとどまり、同時期のサロンの来場者50万人には遠く及ばなかったが、これこそが、近代美術史における独立展覧会という新しい発表形態の出発点となった。
現代への影響
サロンという単一の権威が美術の評価を独占する体制が崩れ、画家たちが自らの手で展覧会を組織し、独自の表現を追求できるようになったことは、20世紀以降の美術のあり方を大きく規定することになった。美術史家アルバート・ボイムは、落選展を評して「近代美術の進展における、最も決定的な制度上の出来事」だったと述べている。今日、画廊やアートフェア、アーティスト自身が主催する展覧会といった、多様な発表の場が当たり前のように存在しているという事実そのものが、この19世紀パリでの「拒絶」の連鎖から始まった伝統の延長線上にある。
よくある誤解
誤解①「落選展はマネら反逆的な画家たちが自ら組織した展覧会だった」→ 実際は皇帝ナポレオン3世の命によって開催された
落選した画家たちの反骨精神から生まれた展覧会だと思われがちだが、実際にはこの展覧会は、落選への抗議の声を受けたナポレオン3世自身が、世論を鎮めるために勅令で設置したものであり、画家たち自身が主催したものではなかった。
誤解②「1874年の印象派展は、発表当初から高く評価され成功を収めた」→ 実際は来場者数も評価も乏しい、興行的な失敗だった
今日の高い評価から、この展覧会も当初から成功を収めたと思われがちだが、実際には来場者数は同時期のサロンに遠く及ばず、批評家からも「未完成な作品」と酷評されるなど、当時としては商業的にも批評的にも失敗した展覧会だった。
FAQ
Q. サロンとはどんな展覧会ですか?
A. フランスの美術アカデミーが主催した公式の美術展覧会で、19世紀を通じてフランス国内で最も権威ある展覧会として、画家たちのキャリアを大きく左右していました。
Q. 落選展はなぜ開催されたのですか?
A. 1863年、サロンの審査があまりに厳しく大量の作品が落選したことへの抗議を受け、皇帝ナポレオン3世が世論に応える形で、落選作品を展示する特別展の開催を命じたためです。
Q. マネの《草上の昼食》はなぜスキャンダルになったのですか?
A. 裸の女性が神話的な文脈ではなく、明らかに同時代の日常的な場面の中で描かれ、さらに鑑賞者を正面から見つめる視線を持っていたことが、当時の常識を大きく逸脱していると受け止められたためです。
Q. 落選展は後の美術史にどんな影響を与えましたか?
A. 既存の権威に頼らず作品を発表するという発想を広め、これが1874年の最初の印象派展をはじめとする、独立展覧会という新しい発表形態の先例となりました。
まとめ
一度の落選騒動をきっかけに開かれた展覧会が、皮肉にもその後の美術史の流れを大きく変えることになった。サロンという単一の権威に頼らずとも、画家は自らの手で作品を世に問うことができる。落選展から11年後、印象派の画家たちが証明したこの事実は、今日の美術のあり方そのものの原点になっている。拒絶されることが、時に新しい道を切り開く最初の一歩になることもある。
