《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》(1844年)は、イギリス・ロマン主義を代表する画家J・M・W・ターナーによる油彩画で、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する作品です。雨と靄の中を疾走する蒸気機関車を、ほとんど抽象画のような色彩のうねりで描き出したこの絵は、印象派の登場を30年近くも先取りしたと評される一枚でありながら、実は画面の中に、今日ではほとんど見えなくなってしまった、もう一つの「速さ」の象徴が隠されています。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | J・M・W・ターナー(1775〜1851) |
| 制作年 | 1844年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 91×121.8cm |
| 所蔵 | ナショナル・ギャラリー(ロンドン) |
| 発表 | 1844年ロイヤル・アカデミー展 |
| 舞台 | メイドンヘッド鉄道橋(グレート・ウェスタン鉄道) |
一言でいうと
《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》は、雨と靄の中をロンドンへ向けて疾走する蒸気機関車を、輪郭の溶けた色彩のうねりとして描き出した、産業革命期の速度と力を称える作品でありながら、実はターナー自身が「速度そのものを象徴する存在」と語っていたのは、機関車ではなく、線路上を機関車の前を走る、今ではほとんど見えなくなった一匹の野兎だったという、意外な逸話を持つ一枚である。
制作背景
この絵は1844年、ロイヤル・アカデミー展で発表されました。描かれているのは、技師イザムバード・キングダム・ブルネルが設計し、1839年に建設されたメイドンヘッド鉄道橋を、テムズ川上空で渡る、グレート・ウェスタン鉄道の機関車です。画面は東側、すなわちロンドンの方角を望む構図で描かれています。1840年代は「鉄道狂時代」とも呼ばれる鉄道建設ブームの真っ只中にあり、1844年時点でグレート・ウェスタン鉄道はすでに100マイル以上の路線を敷設していました。ターナー自身がこの路線に実際に乗車した経験があったのかは定かではありませんが、批評家ジョン・ラスキンに語られた逸話によれば、1843年6月のある嵐の夜、この路線でロンドンへ向かっていた一人の若い女性が、途中停車中に「実に印象的な瞳」を持つ乗客が窓から身を乗り出す姿を目撃し、後にこの絵を見た際、その人物こそターナーだったのではないかと語ったと伝えられています。
見どころ

構図:画面右手には、鋭い斜め方向の構図で、メイドンヘッド鉄道橋を渡る黒い機関車が、まるで画面から飛び出してくるかのような迫力で描かれています。画面左手には、1770年代に建設された、より古い石造りの道路橋が見えますが、こちらは人影もなく描かれ、新旧の技術の対比が意図されています。
速度と蒸気の表現:機関車は「ファイアフライ級」と呼ばれる型式と考えられており、最高速度は時速95キロメートル、平均巡航速度は時速53キロメートルほどだったとされています。当時の機関車は、後年しばしば描かれるような濃密な蒸気の雲を吐き出すことはなく、この絵でも煙突からはわずか3筋ほどの小さな蒸気だけが描かれています。
隠された野兎:画面をよく見ると、線路の上、機関車のわずかに前方に、全力で疾走する一匹の野兎が描き込まれています。この野兎は、絵の制作の後半に既存の絵の具の上から軽く描き加えられた要素で、経年による絵の具の透明化によって、現在ではほとんど視認できなくなっています。しかし1859年に制作された銅版画には、この野兎がはっきりと確認できます。画家ジョージ・レズリーは、9歳の少年だった1844年、ターナーが完成間近のこの絵に最後の仕上げを施す様子を間近で見た経験を語り残しており、その際ターナー自身が、機関車ではなくこの野兎こそが「速度」を象徴する存在なのだと語ったと伝えられています。
その他の象徴:遠くの川面には小舟が浮かび、岸辺では踊る娘たちの姿が見え、さらに遠くには馬を使って畑を耕す農夫の姿も描かれています。こうした牧歌的な情景は、鉄道という新しい技術によって塗り替えられつつある、古き伝統的な世界の姿を象徴していると解釈されています。
評価
1844年のロイヤル・アカデミー展でこの絵を見た小説家ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、「ターナー氏は、これまでのあらゆる驚異を超える驚異を作り出した。本物の雨を描き、その背後には本物の陽光があり、今にも虹が現れそうだ。そこへ、時速50マイルで本当に迫ってくるかのような列車がやってくる」と絶賛し、「これほどの絵を、世界はかつて見たことがない」と結んだと伝えられています。この絵は、印象派の登場を30年近くも先取りしたとも評され、ナショナル・ギャラリーでは、同じくターナーが新旧の技術の移り変わりを主題にした晩年の傑作《解体されるために曳かれてゆく戦艦テメレール号》(1839年)と並んで展示されています。
よくある誤解
誤解①「この絵で『速度』を象徴しているのは機関車である」→ 実際はターナー自身が野兎こそ速度の象徴だと語ったと伝えられている
画面の大部分を占める疾走する機関車から、これこそが速度の象徴だと思われがちですが、実際には、制作の様子を間近で見ていた画家ジョージ・レズリーの証言によれば、ターナー自身は機関車の前を走る、線路上のかすかな野兎の姿こそが速度を象徴していると語ったと伝えられています。
誤解②「この絵に描かれた橋は特定できない、想像上の情景である」→ 実際は実在するメイドンヘッド鉄道橋を描いている
幻想的で抽象度の高い筆致から、架空の情景を描いた作品だと思われがちですが、実際にはこの絵は、技師ブルネルが設計し1839年に完成した、実在のメイドンヘッド鉄道橋を明確に描いており、画面左手にはさらに古い実在の石造り道路橋も描き込まれています。
FAQ
Q. 《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》とはどんな作品ですか?
A. ターナーが1844年に発表した油彩画で、テムズ川に架かるメイドンヘッド鉄道橋を渡る蒸気機関車を、雨と靄の中に描いています。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています。
Q. 画面に描かれている野兎とは何ですか?
A. 線路上を機関車の前方で疾走する一匹の野兎で、経年による絵の具の透明化によって現在ではほとんど見えなくなっていますが、ターナー自身が速度の真の象徴だと語ったと伝えられている、隠れた要素です。
Q. なぜこの絵は印象派を先取りしたと評されるのですか?
A. 輪郭を明確に描かず、光と大気の効果そのものを色彩のうねりとして表現する手法が、後の印象派の技法に通じるものと見なされているためです。
Q. 《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》はどこで見られますか?
A. イギリス・ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています。
まとめ
《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》は、雨と靄の中をロンドンへ向けて疾走する蒸気機関車を、輪郭の溶けた色彩のうねりとして描き出した、産業革命期の速度と力を称える作品でありながら、実はターナー自身が「速度そのものを象徴する存在」と語っていたのは、機関車ではなく、線路上を機関車の前を走る、今ではほとんど見えなくなった一匹の野兎だったという、意外な逸話を持つ一枚です。多くの人がこの絵を機関車の絵として記憶する一方で、ターナー自身が主役だと考えていたものは、今もほとんど気づかれないまま画面の中に潜んでいます。

