《リリス》(1887年)は、イギリスの画家ジョン・コリアによる油彩画で、イングランド・サウスポートのアトキンソン・アート・ギャラリーが所蔵する作品です。金色の髪をした裸婦が、身体に巻きつく大蛇の頭を愛おしむように抱きかかえるこの絵は、旧約聖書には直接登場しないにもかかわらず、ユダヤの伝承の中で語り継がれてきた「アダムの最初の妻」という魅惑的で危険な女性像を、ラファエル前派風の緻密な筆致で描き出した作品です。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ジョン・コリア(1850〜1934) |
| 制作年 | 1887年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 約194×104cm |
| 所蔵 | アトキンソン・アート・ギャラリー(サウスポート、イングランド) |
| 様式 | ラファエル前派の影響を受けたリアリズム |
| 主題 | ユダヤ伝承のリリス伝説 |
一言でいうと
《リリス》は、旧約聖書の本文には直接登場しないにもかかわらず、ユダヤの伝承の中でアダムの最初の妻として語り継がれてきた女性を、身体に巻きつく大蛇と一体化するかのような官能的な姿で描き、「美しさそのものが危険である」という詩人ロセッティの詩的着想を、絵画として結実させた作品である。
制作背景
リリスという存在は、旧約聖書そのものには登場しません。彼女の物語がまとまった形で語られるのは、8世紀から10世紀頃に成立したとされるユダヤの文献『ベン・シラのアルファベット』においてです。この物語では、神が土からアダムと同じようにリリスを創造したものの、性交の際にどちらが上になるかをめぐって対等を主張したリリスは、神の名を唱えて楽園から飛び去り、以後は悪魔的な存在として恐れられるようになったとされています。この伝承は後にカバラの文献にも取り込まれ、リリスは魔女や悪霊の女王として位置づけられていきました。
コリアがこの絵を手がけた直接のきっかけは、ラファエル前派の詩人・画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが1868年に発表した詩『リリス、あるいは肉体の美』でした。ロセッティはこの詩の中で、リリスを「その髪は世界に初めての黄金をもたらした」と讃えながらも、その美しさそのものが人を破滅させる武器であると描写しています。コリアはこの詩的なイメージを、絵画として視覚化したのです。1887年にロイヤル・アカデミーで発表されたこの絵は、称賛と困惑の入り混じった反応を巻き起こしました。
見どころ

構図
構図:金色の豊かな巻き毛を長く垂らした裸婦が、深い緑色の森を背景に、目を閉じて恍惚とした表情を浮かべながら立っています。彼女の身体には一匹の大蛇が巻きつき、その頭部を彼女自身が右手でそっと抱き寄せ、まるで恋人か我が子のように頬を寄せています。
図像学
蛇は聖書の伝統において、エデンの園でエヴァを唆した誘惑者として描かれるのが通例ですが、この絵における蛇とリリスの関係は、被害者と加害者という構図ではありません。リリス自身が蛇を招き寄せ、慈しむように扱っていることから、彼女自身がすでに誘惑する側、すなわち危険な魅力そのものを体現する存在として描かれていることがわかります。当時の美術雑誌『ブリティッシュ・アーキテクト』は、この絵を「官能的で丸みを帯びた裸体が、大きな蛇によって水平に二分されている」と評しながらも、「背景の粗野な緑色は不快で忌まわしい」と手厳しく批評しました。
技法
コリアの写実的な描写力は、当時から高く評価されていました。『フォトグラフィック・ニュース』誌はこの裸体表現を「きわめて価値の高い習作」と評し、『ブリティッシュ・アーキテクト』でさえも「コリアのように描ける画家はほとんどおらず、まして彼のようにあの蛇を描ける画家は半ダースもいないだろう」と、その技巧だけは認めざるを得ませんでした。
評価
《リリス》は1887年のロイヤル・アカデミー展で発表されると、その主題の背徳性ゆえに賛否両論を呼びましたが、同時にコリアの技術的な卓越性を否定する者はほとんどいませんでした。20世紀以降、リリスは男性中心の宗教的伝承の中で悪魔化されてきた女性として、フェミニズムの視点から自立と独立、性的解放の象徴として再評価されるようになっています。コリアが描いたこの絵もまた、単なる「危険な女」の図像としてだけでなく、男性の秩序に従わなかった女性への恐れと魅了が入り混じった、両義的なまなざしの産物として読み解かれています。
よくある誤解
誤解①「リリスは旧約聖書に登場するアダムの最初の妻である」→ 実際は聖書本文には登場せず、後世のユダヤ伝承に由来する
リリスの物語は聖書に直接書かれていると思われがちですが、実際には旧約聖書の本文にリリスが「アダムの最初の妻」として登場する記述はなく、この物語は8世紀から10世紀頃に成立した『ベン・シラのアルファベット』という後世の文献に由来しています。
誤解②「蛇はリリスを襲う脅威として描かれている」→ 実際はリリス自身が蛇を慈しむように抱き寄せている
エデンの園でエヴァを唆した蛇のイメージから、この絵の蛇もリリスを脅かす存在だと思われがちですが、実際にはリリス自身が蛇の頭を自ら抱き寄せ、頬を寄せる仕草を見せており、蛇と彼女との関係は被害者と加害者ではなく、むしろ一体化した親密な関係として描かれています。
FAQ
Q. 《リリス》とはどんな作品ですか?
A. コリアが1887年に描いた油彩画で、ユダヤ伝承に登場するアダムの最初の妻リリスを、身体に大蛇を巻きつけた姿で描いています。アトキンソン・アート・ギャラリーが所蔵しています。
Q. リリスとはどのような存在ですか?
A. 旧約聖書本文には登場しませんが、後世のユダヤ伝承において、神から対等を主張してアダムのもとを去った最初の妻とされ、後に悪霊や魔女の女王として恐れられるようになった存在です。
Q. なぜコリアはこの主題を描いたのですか?
A. ラファエル前派の詩人ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが1868年に発表した詩『リリス、あるいは肉体の美』に触発され、美しさそのものが危険であるというイメージを絵画化しました。
Q. 《リリス》はどこで見られますか?
A. イングランド・サウスポートのアトキンソン・アート・ギャラリーが所蔵しています。
まとめ
《リリス》は、旧約聖書の本文には直接登場しないにもかかわらず、ユダヤの伝承の中でアダムの最初の妻として語り継がれてきた女性を、身体に巻きつく大蛇と一体化するかのような官能的な姿で描き、「美しさそのものが危険である」という詩人ロセッティの詩的着想を、絵画として結実させた作品です。130年以上を経た今もなお、男性中心の秩序に従わなかった女性への恐れと魅了という、両義的なまなざしを私たちに問いかけ続けています。
