《グロス・クリニック》(1875年)は、アメリカの写実主義画家トマス・エイキンズによる油彩画で、フィラデルフィア美術館とペンシルベニア美術アカデミー(PAFA)が共同所蔵する作品です。フィラデルフィアの名外科医サミュエル・D・グロス博士が、血のついた手でメスを持ちながら学生たちに講義する姿を描いたこの絵は、あまりの生々しさゆえに1876年の万国博覧会で美術部門から締め出されるという屈辱を味わい、その後130年を経て6800万ドルという記録的な金額で売却されかけた末に、市民の力でフィラデルフィアに留め置かれた、数奇な運命をたどった一枚です。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | トマス・エイキンズ(1844〜1916) |
| 制作年 | 1875年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 約240×200cm(8×6.5フィート) |
| 所蔵 | フィラデルフィア美術館/ペンシルベニア美術アカデミー(共同所蔵) |
| 主題 | サミュエル・D・グロス博士による骨髄炎の外科手術(ジェファーソン医科大学) |
| 様式 | リアリズム(写実主義) |
一言でいうと
《グロス・クリニック》は、フィラデルフィアの名外科医グロス博士が血のついた手でメスを持ちながら学生に講義する姿を描いた、19世紀アメリカ絵画屈指の傑作でありながら、発表当初はあまりの生々しさゆえに美術展から締め出され、21世紀に入ってからも6800万ドルでの売却騒動に揺れた、数奇な運命をたどった作品である。
制作背景
1875年、31歳のエイキンズは、翌年フィラデルフィアで開催される独立100周年記念の万国博覧会(センテニアル・エキシビション)に向けて、この大作に取り組みました。医学と教育の分野で全米をリードする都市フィラデルフィアの威信を示すべく、彼が選んだ主題は、「アメリカ外科学の帝王」と呼ばれた実在の名外科医、サミュエル・D・グロス博士でした。エイキンズ自身、パリ留学からの帰国後、母校ジェファーソン医科大学で実際にグロスの手術に立ち会っており、その現場を目撃した経験が制作の土台になっています。
制作は1875年4月頃に始まり、その夏を通じてエイキンズはグロス博士の自宅を訪ね、モデルとして何度もセッションを重ねました。友人への手紙の中でエイキンズは、この絵を「これまで自分が手がけた何よりも優れている」と語っていたことが知られています。
見どころ

構図
画面中央には、黒いフロックコートをまとった70歳のグロス博士が、血のついた右手にメスを握ったまま、手を止めて階段状の見学席に座る学生たちのほうを振り返り、講義をしている瞬間が捉えられています。実際に大腿骨の切開を行っているのは博士本人ではなく、周囲の助手たちであり、グロス自身は一旦手技を中断し、知識と経験に裏打ちされた確信に満ちた表情で語りかけているところです。天窓から差し込む光が博士の白髪と広い額を照らし出し、旧約聖書の預言者のような威厳を与えています。
図像学
画面左手前には、この絵で唯一の女性が描かれています。爪を立てるように顔を覆い、身をよじって手術から目を背けるこの人物は、伝統的に患者の母親と考えられており、その取り乱した様子は、患者を取り囲む医師たちの冷静な態度と鋭い対比をなしています。画面右手前の柵の脇には、白い袖口の男性が何かを書きつける姿で描かれていますが、これはエイキンズ自身の自画像です。「私はその場に立ち会った証人である」と主張するかのようなこの挿入は、エイキンズが好んだ手法でもあります。また、グロスの右肩越しに記録を取っているのは、臨床記録係のフランクリン・ウェスト博士とされています。
技法
暗く沈んだ手術室の中で、患者の青白い肌と白いシーツ、そして鮮やかな血の赤だけが強い光を浴びて浮かび上がる明暗のコントラストは、レンブラントの《テュルプ博士の解剖学講義》(1632年)を思わせる伝統に連なるものです。エイキンズの署名は、手術台の正面に書き込まれています。
来歴と評価
エイキンズはこの絵を1876年のセンテニアル・エキシビションの美術部門に出品しましたが、審査員団は場面があまりに生々しく衝撃的だとして、美術館(現在のフィラデルフィア美術館の前身となるメモリアル・ホール)への展示を拒否しました。代わりにこの絵が展示されたのは、会場内に設けられた「アメリカ陸軍仮設病院」の展示区画という、いわば美術とは無縁の場所でした。当時のニューヨーク・トリビューン紙は、この絵を「今世紀世界中で描かれた絵の中で最も力強く、恐ろしくも魅了してやまない作品の一つ」と評しながらも、「神経の弱い人々にこの絵を見せざるを得ない展示室に置くことは非難せざるを得ない」と、賞賛と拒絶の入り混じった複雑な評を残しています。
1878年、グロス博士のかつての教え子たちがこの絵を200ドルで買い取り、母校ジェファーソン医科大学に寄贈しました。以後およそ130年にわたり、この絵は同大学(現トーマス・ジェファーソン大学)に所蔵され続けます。しかし2006年11月、大学の理事会は、ワシントンのナショナル・ギャラリーと、ウォルマート創業家のアリス・ウォルトンが新設を進めていたクリスタル・ブリッジズ美術館(アーカンソー州)に、この絵を6800万ドルで売却することを決定したと発表しました。フィラデルフィアの医師・画家・患者たちを描いたこの絵が街の外へ流出することに対し、市民から猛烈な反発が巻き起こります。大学側は地元機関に45日間の猶予を与え、その間に同額を提示できれば売却を撤回するとしました。フィラデルフィア美術館とペンシルベニア美術アカデミーは共同でファンドレイジングに乗り出し、3,400人以上の寄付者からわずか45日間で資金の大半を集め、不足分をワコビア銀行からの融資で補い、2007年1月、正式に両館の共同所蔵として同絵をフィラデルフィアに留め置くことに成功しました。
現在ではアメリカ絵画史上最高峰の一枚と見なされており、後年エイキンズが手がけた《アグニュー・クリニック》(1889年)としばしば比較されます。白衣に身を包み、消毒された明るい手術室で行われる後者の場面は、19世紀末にかけて外科手術の衛生観念がいかに進歩したかを物語る、いわば対の作品として位置づけられています。
よくある誤解
誤解①「グロス博士はこの瞬間、まさに患者を執刀している最中である」→ 実際は手を止めて学生に講義している場面
血のついたメスを握る姿から、グロス博士自身が今まさに切開を行っていると思われがちですが、実際にこの絵が捉えているのは、博士がその手を止め、大腿骨の患部を切開する助手たちから視線を外して、見学席の学生たちに向かって説明をしている瞬間です。
誤解②「この絵は発表当初から傑作として絶賛されていた」→ 実際は美術部門から拒否され、陸軍病院展示に追いやられた
現在の高い評価から、最初から傑作と認められていたと思われがちですが、実際には1876年のセンテニアル・エキシビションで美術部門への出展を拒否され、会場内の陸軍仮設病院の展示区画に押し込められるという扱いを受けました。
FAQ
Q. 《グロス・クリニック》とはどんな作品ですか?
A. エイキンズが1875年に描いた油彩画で、フィラデルフィアの名外科医サミュエル・D・グロス博士が、骨髄炎の手術を行いながら学生に講義する場面を描いています。現在はフィラデルフィア美術館とペンシルベニア美術アカデミーが共同所蔵しています。
Q. 描かれている手術は何ですか?
A. 大腿骨に生じた骨髄炎(骨の感染症)に対する外科手術で、当時グロス博士が確立した治療法に基づいています。患者は若い男性とされています。
Q. 画面左手前で顔を覆っている女性は誰ですか?
A. 伝統的に患者の母親と考えられている人物で、手術から目を背け取り乱す姿は、周囲の医師たちの冷静さと対照的に描かれています。
Q. 《グロス・クリニック》は現在どこで見られますか?
A. フィラデルフィア美術館とペンシルベニア美術アカデミーが共同所蔵しており、両館で交代しながら展示されています。
まとめ
《グロス・クリニック》は、フィラデルフィアの名外科医グロス博士が血のついた手でメスを持ちながら学生に講義する姿を描いた、19世紀アメリカ絵画屈指の傑作でありながら、発表当初はあまりの生々しさゆえに美術展から締め出され、21世紀に入ってからも6800万ドルでの売却騒動に揺れた、数奇な運命をたどった作品です。150年近くを経た今もなお、この絵は科学と芸術、そして一つの都市が誇りをかけて守り抜いた「生々しい真実」を私たちに問いかけ続けています。

