満月の光を浴びながら、闇の中に立つ黒い肌の女性が笛を吹いています。木の枝からは大蛇が伸び、彼女の脚元にも別の蛇が、肩には一匹が巻きついています。《蛇使いの女》(1907年)は、フランスの素朴派の画家アンリ・ルソーによる油彩画で、パリのオルセー美術館が所蔵しています。ルソーにとって初めての本格的な注文作となったこの絵は、後年キュビスムを牽引することになる画家ロベール・ドローネーの母親からの依頼によって生まれました。
基本情報
作者:アンリ・ルソー(1844〜1910)
制作年:1907年
技法・素材:油彩・カンヴァス
サイズ:約169×189.5cm
所蔵:オルセー美術館(パリ)
依頼主:ベルト・ド・ドローネー伯爵夫人(画家ロベール・ドローネーの母)
発表:1907年、サロン・ドートンヌ
一言でいうと
《蛇使いの女》は、月明かりの下、水辺の暗いジャングルを背景に、笛の音で蛇を操る黒い肌の女性を描いた作品です。しばしば「黒いイヴ」と呼ばれるこの人物は、聖書の創世記に登場する誘惑的な蛇とは対照的な、どこか恐ろしげな蛇と向き合う存在として描かれています。
制作背景
この絵は、画家ロベール・ドローネーの母であるベルト・ド・ドローネー伯爵夫人からの依頼によって制作されました。ドローネー自身もルソーの熱心な支持者の一人であり、母に注文を勧めたのは彼だったと考えられています。この作品はルソーにとって初めての大型の注文作であり、1907年10月15日、サロン・ドートンヌで発表されました。
ルソーは終生フランス国外へ旅することはほとんどなく、彼が語っていたメキシコでの軍務経験も確証がないとされています。この絵に描かれた密林の草木や動物は、パリの自然史博物館と、そこに併設された植物園(温室と動物飼育場を兼ねた施設)への度重なる訪問から着想を得たものです。
見どころ

「黒いイヴ」としての女性
画面中央に立つ女性は、しばしば「黒いイヴ」と呼ばれてきました。エデンの園を思わせる不穏な雰囲気の中、聖書の蛇が誘惑的な存在として描かれてきたのとは対照的に、ここでの蛇は恐ろしげな姿で表現されており、伝統的な図像を裏返すような発想が見て取れます。
逆光がもたらす色彩
背景の空を薄明るく残し、手前の密林と人物を逆光の中に沈めるこの構成は、当時としてはきわめて斬新なものでした。オルセー美術館の解説によれば、この鮮やかで濃密な色彩の使い方は、後年の画家マグリットの色彩感覚を先取りするものだったとも評されています。
非対称な縦長の構図
画面は縦長に構成され、左右非対称な配置が取られています。この構図上の工夫もまた、当時の絵画の慣習からは逸脱した、ルソー独自の斬新さを示すものでした。ルソー自身はかつてピカソに向かって、「つまるところ、君はエジプト風の様式で、私は現代風の様式で同じことをしているのだ」と語ったと伝えられています。
評価と受容
《蛇使いの女》は、ドローネー家に長く所有された後、フランスのファッションデザイナーで美術収集家でもあったジャック・ドゥーセの手に渡りました。ドゥーセはこの絵をフランス国家に遺贈し、1937年、ルソーの作品としては初めてルーヴル美術館に展示されることになりました。その後、パリ国立近代美術館を経て、現在のオルセー美術館へと移されています。ルソーの熱心な支持者には、アルフレッド・ジャリ、アンドレ・ブルトン、ギヨーム・アポリネール、ロベール・ドローネー、パブロ・ピカソといった、当時の前衛芸術を代表する面々が名を連ねていました。ブルトンはルソーの作品を、後のシュルレアリスムに通じる「魔術的リアリズム」の早い体現だと評価しています。
よくある誤解
誤解①「この絵はルソーがアフリカや南米を旅した経験から生まれた」→ 実際はパリの植物園と博物館での観察に基づいている
異国情緒あふれる描写から実地の旅行経験があると思われがちですが、実際にはルソーはフランス国外へほとんど出たことがなく、この絵の着想もすべてパリ市内での観察から生まれています。
誤解②「この絵は最初からオルセー美術館の所蔵品だった」→ 実際は複数の所有者・美術館を経て現在の場所に至っている
現在の所蔵先から一貫してオルセー美術館にあったと思われがちですが、実際にはドローネー家からドゥーセの手に渡り、ルーヴル美術館、パリ国立近代美術館を経て、ようやく現在のオルセー美術館に落ち着いています。
FAQ
Q. 《蛇使いの女》とはどんな作品ですか?
A. ルソーが1907年に手がけた油彩画で、月明かりの下、笛の音で蛇を操る黒い肌の女性を密林を背景に描いています。オルセー美術館が所蔵しています。
Q. なぜこの絵はルソーにとって重要な作品なのですか?
A. 画家ロベール・ドローネーの母からの依頼による、ルソー初の本格的な大型注文作であり、彼の画業における大きな転機となった作品だからです。
Q. なぜこの絵は「黒いイヴ」と呼ばれるのですか?
A. エデンの園を思わせる不穏な密林の中で蛇と向き合う女性の姿が、聖書の創世記に登場するイヴの物語を連想させるためです。
Q. 《蛇使いの女》はどこで見られますか?
A. フランス・パリのオルセー美術館が所蔵しています。
まとめ
一人の伯爵夫人が息子の勧めで注文したこの絵が、後にルーヴル美術館の壁を飾ることになるとは、依頼した当人も想像していなかったかもしれません。フランスを離れたことのない画家が、パリの温室だけを頼りに作り上げたこの密林の情景は、100年以上を経てなお、ピカソやブルトンといった名だたる芸術家たちを魅了した理由を静かに物語っています。

