《岩窟の聖母》は、レオナルド・ダ・ヴィンチが手がけた宗教画で、パリのルーヴル美術館とロンドンのナショナル・ギャラリーに、ほぼ同じ構図の2つのバージョンが存在します。神秘的な岩窟を背景に、聖母マリア、幼子キリスト、幼い洗礼者ヨハネ、天使を描いたこの作品は、なぜ2枚も存在するのでしょうか。その背景には、依頼主との間で25年にもわたって続いた報酬をめぐる訴訟がありました。さらに2019年には、赤外線調査によって驚きの新事実も発見されています。この記事では、この作品の見どころ、2バージョンが生まれた経緯、そして小説『ダ・ヴィンチ・コード』が題材にした図像学的な謎までを解説します。
《岩窟の聖母》とは — 基本情報


| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519) |
| 制作年 | ルーヴル版:1483〜1486年頃/ロンドン版:1495〜1508年頃 |
| 技法・素材 | 油彩・板(ルーヴル版は後にカンヴァスへ移植) |
| サイズ | ルーヴル版199×122cm/ロンドン版189.5×120cm |
| 所蔵 | ルーヴル美術館(パリ)/ナショナル・ギャラリー(ロンドン) |
| 依頼主 | ミラノ、聖母無原罪の御宿り信心会 |
一言でいうと 《岩窟の聖母》は、報酬をめぐる依頼主との25年にわたる訴訟という、極めて世俗的な事情から生まれながらも、無原罪の御宿りという教義を、神秘的な岩窟の風景の中に見事に視覚化した、レオナルドの深い精神性を示す傑作である。
制作背景 — なぜこの作品が生まれたのか
1483年の契約と報酬をめぐる対立
1483年4月、レオナルドはミラノの画家兄弟エヴァンジェリスタ・デ・プレディスとジョヴァンニ・アンブロージョ・デ・プレディスとともに、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂を拠点とする「聖母無原罪の御宿り信心会」から、祭壇画制作の依頼を受けました。契約書には、材料費込みで800リラという報酬、そして翌1484年の無原罪の御宿りの祝日までの完成期限が明記され、金箔の質や色、描くべき人物まで、極めて詳細な仕様が定められていました。しかしこの報酬は、彫刻家ジャコモ・デル・マイノが祭壇の木彫だけで710リラを受け取っていたことと比べると、3人の画家が金箔の調達までを含めて手がけるにはあまりに低い金額でした。この不満から、レオナルドらと信心会との間で、報酬をめぐる激しい対立が生じます。
25年に及んだ訴訟の顛末
完成した最初のバージョン(現在のルーヴル版)は、この報酬問題により信心会には納品されず、代わりに別の買い手(諸説あるが、フランス王室に渡ったとされる)に売却されてしまいました。1625年には、このバージョンがフランスのフォンテーヌブロー宮殿で目撃されたという記録も残っています。信心会への納品という当初の契約を果たすため、レオナルドは新たに2作目(現在のロンドン版)を、弟子アンブロージョ・デ・プレディスの助力を得ながら制作することになります。この訴訟は、当時ミラノを統治していたフランス王ルイ12世の仲裁によって、実に契約から25年後の1508年、ようやく決着しました。ロンドン版はその後、1781年頃まで教会の祭壇画として置かれ続けましたが、同年頃に教会がこれを売却し、1785年までにはスコットランド人画家ギャヴィン・ハミルトンの手に渡り、イギリスへ運ばれています。1880年、ナショナル・ギャラリーがこれを購入し、現在に至ります。
見どころ徹底解説
構図 — 岩窟に守られた聖なる空間
画面には、ひざまずく聖母マリアが、右手を幼い洗礼者ヨハネに回しながら、前に座る幼子キリストの上に手を掲げる様子が描かれています。傍らの天使は幼子キリストの背中を支え、見る者の方へ視線を投げかけています。奇怪な岩窟を背景にしたこの構成は、それ以前のルネサンス絵画には見られない、深遠な精神性を画面全体に与えています。硬く冷たい岩の間から、水や植物が芽生えている様子は、「無原罪の御宿り」という、外界の穢れから隔絶された清らかな空間という教義を、象徴的に表現しているとも解釈されています。
技法 — スフマートと科学的な自然観察
レオナルドは、岩の形状や植物の生態を、自身の地質学・植物学的な観察に基づいて、驚くほど正確に描き込んでいます。輪郭をぼかして描く「スフマート」の技法により、人物と背景が滑らかに溶け合い、幻想的な奥行きが生み出されています。特にルーヴル版では、湿り気を帯びたような暗めの色調と、より顕著なスフマートによって、夢の中にいるような神秘的な空間が作り出されています。
図像学 — 2つのバージョンの決定的な違い
ルーヴル版とロンドン版を見比べると、いくつかの重要な違いに気づきます。ルーヴル版の人物には光輪(ハロー)が描かれておらず、洗礼者ヨハネにも伝統的な持ち物(葦の十字架、羊の毛皮)が見られません。この曖昧さから、小説『ダ・ヴィンチ・コード』では、左側の幼子をキリストだと解釈し、キリストが洗礼者ヨハネを拝んでいるという、教会が激怒しかねない場面として扱われました。しかし一般的な美術史的解釈では、両手を合わせる仕草は洗礼の儀式を示すものとされています。一方ロンドン版では、光輪が明確に描かれ、左側の幼子(洗礼者ヨハネ)が葦の十字架と羊の毛皮を身につけており、誰が誰であるかが一目瞭然になっています。この違いは、より「教義的に正しい」礼拝画としての完成度を求められた結果だと考えられています。
💡 ここに注目(編集部より) 2019年、ロンドン版に赤外線調査が行われた際、現在の完成画の下に、まったく異なる下絵が存在することが判明しました。この発見は新たな謎を投げかけています。もしルーヴル版で新しい構図を採用したのなら、ロンドン版でわざわざ古い構図を一度試してから、結局元の構図に戻したことになり、レオナルドの常に革新を求める性格とは、いささか矛盾するようにも見えるのです。名画の謎解きは、今なお続いています。
2つのバージョンを比べる


| ルーヴル版 | ロンドン版 | |
|---|---|---|
| 制作年 | 1483〜1486年頃 | 1495〜1508年頃 |
| 光輪の有無 | なし | あり |
| 洗礼者ヨハネの持ち物 | 描かれていない | 葦の十字架・羊の毛皮あり |
| 色調 | 暗く湿り気を帯びた神秘的な色調 | より明るく、人物の輪郭が明瞭 |
| 位置づけ | レオナルドの自由な発想による神秘的な構想 | 祭壇画としての教義的な明快さを重視 |
多くの美術史家は、ルーヴル版の方が制作年が古いと考えています。ナショナル・ギャラリーの元館長マーティン・デーヴィスは、ルーヴル版はレオナルド初期の作風を示し、ロンドン版にはより円熟した後期の作風が感じられると指摘し、ロンドン版はルーヴル版からの派生作品だと結論づけました。両バージョンの祭壇左右には、天使を描いた付属パネルも存在し、これらも現在ナショナル・ギャラリーに所蔵されています。2011年から2012年にかけて、ナショナル・ギャラリーが企画した展覧会で、両バージョンが短期間ながら同時に展示されるという、貴重な機会もありました。
実際に見るには
ルーヴル版はパリのルーヴル美術館、ロンドン版はロンドンのナショナル・ギャラリーに、それぞれ常設展示されています。訪問前に、目当てのバージョンがどちらの美術館にあるか確認することをおすすめします(最終確認日:2026年7月10日)。
よくある誤解
誤解①「2つのバージョンはどちらも同じ意図で描かれた単純な複製である」→ 実際は異なる文脈と意図を持つ独立した作品である
ほぼ同じ構図であることから、単なる複製関係にあると思われがちですが、実際には報酬をめぐる訴訟という経緯を経て、それぞれ異なる文脈で完成された作品です。ルーヴル版はレオナルドの自由な発想がより色濃く表れた神秘的な構想であるのに対し、ロンドン版は祭壇画としての教義的な明快さが求められた結果、光輪や持ち物といった図像学的な要素がより明確に描き加えられています。
誤解②「『ダ・ヴィンチ・コード』が指摘する図像の謎は、美術史的にも定説となっている」→ あくまで小説の創作的な解釈である
ルーヴル版に光輪や持ち物が描かれていないことから生まれる図像の曖昧さは事実ですが、これを「キリストが洗礼者ヨハネを拝んでいる」とする解釈は、小説『ダ・ヴィンチ・コード』による創作的な読み解きです。一般的な美術史的解釈では、両手を合わせる仕草は洗礼の儀式を象徴するものとされており、教会を挑発するような意図があったとする説は、学術的な定説ではありません。
FAQ
Q. 《岩窟の聖母》とはどんな作品ですか?
A. レオナルド・ダ・ヴィンチが手がけた宗教画で、岩窟を背景に聖母マリア、幼子キリスト、幼い洗礼者ヨハネ、天使を描いています。ルーヴル美術館とナショナル・ギャラリーに、ほぼ同じ構図の2つのバージョンが存在します。
Q. なぜ《岩窟の聖母》は2枚存在するのですか?
A. 1483年の依頼契約で、報酬をめぐりレオナルドと依頼主の信心会の間で対立が生じ、最初に完成したバージョン(現ルーヴル版)は納品されず、別の買い手に売却されてしまいました。信心会への納品という当初の契約を果たすため、新たに2作目(現ロンドン版)が制作されたのです。
Q. 2つのバージョンにはどんな違いがありますか?
A. ルーヴル版には人物の光輪がなく、洗礼者ヨハネの伝統的な持ち物も描かれていません。一方ロンドン版には光輪が明確に描かれ、洗礼者ヨハネも持ち物によって識別できるようになっています。
Q. 《岩窟の聖母》はどこで見られますか?
A. ルーヴル版はパリのルーヴル美術館、ロンドン版はロンドンのナショナル・ギャラリーに、それぞれ所蔵されています。
まとめ
《岩窟の聖母》は、報酬をめぐる依頼主との25年にわたる訴訟という、極めて世俗的な事情から生まれながらも、無原罪の御宿りという教義を、神秘的な岩窟の風景の中に見事に視覚化した、レオナルドの深い精神性を示す傑作です。ルーヴル版とロンドン版、この2つの作品を見比べることで、同じ主題に対してレオナルドがいかに異なるアプローチで向き合ったかを体感することができます。2019年に発見された謎の下絵が示すように、この作品をめぐる探究は、500年以上を経た今もなお続いているのです。

