《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》(1885〜1886年)は、ジョン・シンガー・サージェントによる油彩画で、ロンドンのテート・ブリテンが所蔵する、幻想的な庭園の情景を描いた傑作です。夕暮れ時、白い服をまとった2人の少女が紙提灯に灯りをともす、この詩情豊かな一枚には、一風変わったタイトルがつけられています。実はこの絵、《マダムXの肖像》のスキャンダルによってパリを追われたサージェントが、ロンドンで迎えた再起の時期に手がけた作品でもあります。この記事では、この作品の見どころ、奇妙なタイトルの由来、そして薄暮の光を追い求めた気の遠くなるような制作方法までを解説します。
《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》とは — 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ジョン・シンガー・サージェント(1856〜1925) |
| 制作年 | 1885〜1886年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| 所蔵 | テート・ブリテン(ロンドン) |
| 舞台 | イギリス・ウスターシャー州ブロードウェイの邸宅の庭園 |
| 初出展 | 1887年、ロイヤル・アカデミー夏季展覧会 |
一言でいうと 《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》は、パリでのスキャンダルからロンドンへ逃れたサージェントが、毎夕ほんの20分だけ、同じ薄暮の光を辛抱強く追い求めて完成させた、詩情と丹念な観察が結晶した傑作である。
制作背景 — なぜこの作品が生まれたのか
スキャンダル後の再起の地で
この作品が描かれたのは、《マダムXの肖像》がパリのサロンで大スキャンダルを引き起こし、サージェントがロンドンへの移住を余儀なくされた、まさにその時期でした。ロンドン西方、ウスターシャー州ブロードウェイにあるファーナム・ハウスという古い邸宅に滞在していたサージェントは、その庭園を舞台に、この幻想的な作品を手がけます。邸宅の持ち主は、アメリカ人画家仲間フランシス・デーヴィス・ミレーでした。皮肉にも、このミレーは後年、あのタイタニック号沈没事故で命を落としています。
変わったタイトルの由来
「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」という一風変わったタイトルは、18世紀に活躍したイギリスの作曲家ジョゼフ・マジンギの流行歌『汝、羊飼いよ、告げよ』の一節から取られています。花の女神フローラの装いを歌ったこの牧歌的な歌には、「彼女の頭には花冠、頭に巻いたカーネーション、リリー、リリー、ローズ」という一節があります。あわせて、この邸宅の持ち主ミレーの妻の名が「リリー」であったこととも重ね合わされた、二重の言葉遊びだったとも言われています。
見どころ徹底解説

構図 — 水平線のない没入感
画面には地平線を示す水平の線が一切描かれておらず、緑の葉が画面いっぱいを占めています。この構成により、鑑賞者はまるで少女たちと同じ草花の中に身を置いているかのような感覚を覚えると同時に、彼女たちを見下ろしているような、不思議な視点の効果が生まれています。もともとは横に長い長方形のキャンバスでしたが、サージェントは左側を60センチほど切り落とし、ほぼ正方形に近い形に改めました。この変更により、少女たちの背がより高く、すらりと見えるようになっています。
技法 — 毎夕20分だけの根気強い制作
サージェントは、この絵を毎晩、日が暮れて薄闇が訪れるほんのわずかな時間帯——およそ20分程度——だけを使って、少しずつ描き進めたと伝えられています。同じ光の効果を捉えるため、何か月にもわたり、来る日も来る日も同じ時刻に絵筆を執り続けたのです。この気の遠くなるような制作方法から、じっくりと楽しみながら筆を運んだサージェントの姿がうかがえます。
図像学 — ジャポニスムの香り
少女たちが灯す紙提灯は、当時日本から輸出されていた品でした。頭上に伸びる背の高い白いユリも、日本原産のヤマユリ(Lilium auratum)で、当時球根が日本から輸出され、ヨーロッパの園芸界で人気を博していた品種です。ホイッスラー、メアリー・カサットと並び「印象派周辺のアメリカ人三大画家」の一人とされるサージェントの作品にも、こうしたジャポニスムの影響が静かに息づいています。
💡 ここに注目(編集部より) この絵を見るときは、少女たちが提灯に灯をともす、その手元の光にまず目を向けてみてください。次に視線を上げて、白いユリ、ピンクのバラ、黄色いカーネーションへと巡らせてみましょう。サージェントが何か月もかけて追い求めた、一日のうちのほんの数分間だけ訪れる、この特別な光の魔法を、追体験することができるはずです。
作品の来歴
モデルを務めたのは、サージェントの友人であったイラストレーター、フレデリック・バーナードとその妻アリスの娘たちでした。1887年、ロイヤル・アカデミー夏季展覧会にこの作品が出品されると、反応は複雑なものとなりました。サージェントの「フランス的」な様式に批判の声も上がりましたが、称賛の声も多く上がります。ロイヤル・アカデミー会長のフレデリック・レイトンは、フランシス・レガット・チャントリーの遺産を用いて、テート・ギャラリーがこの作品を購入することを推薦しました。これは、サージェントにとって初めて公立美術館から購入された作品となり、パリでのスキャンダルから立ち直りつつあった彼にとって、大きな励みとなる出来事でした。
評価と影響
《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》は、サージェントの充実期を代表する作品として、今日高く評価されています。スキャンダルという逆境を乗り越え、詩情豊かな新しい表現へと向かったこの一枚は、以後ロンドン・アメリカで肖像画家として大成功を収めていく、サージェントの再起の物語を静かに物語っています。
実際に見るには
ロンドンのテート・ブリテンが所蔵しています。訪問前に公式サイトで開館時間や展示状況を確認することをおすすめします(最終確認日:2026年7月10日)。
よくある誤解
誤解①「このタイトルは花の種類を単純に列挙しただけである」→ 実は流行歌の歌詞からの引用である
「カーネーション」「リリー」「ローズ」という花の名前が並ぶことから、単に描かれた花を列挙しただけのタイトルだと思われがちですが、実際には18世紀の流行歌の歌詞からそのまま引用されたものです。歌の中で花の女神フローラの装いを歌う一節が、そのままタイトルとして採用されています。
誤解②「この絵はサージェントが短期間で仕上げた作品である」→ 実際は何か月にもわたる根気強い制作の結果だった
美しく詩情豊かな一枚であることから、比較的短期間で完成させたと思われがちですが、実際には毎夕ほんの20分程度という限られた時間だけを使い、何か月にもわたって少しずつ描き進められた作品です。同じ薄暮の光を辛抱強く追い求め続けた、極めて丹念な制作の産物なのです。
FAQ
Q. 《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》とはどんな作品ですか?
A. サージェントが1885年から1886年にかけて制作した油彩画で、夕暮れ時に紙提灯を灯す2人の少女を描いています。テート・ブリテンが所蔵する、幻想的な庭園の情景です。
Q. なぜこのような変わったタイトルなのですか?
A. 18世紀イギリスの作曲家ジョゼフ・マジンギの流行歌『汝、羊飼いよ、告げよ』の歌詞の一節から取られています。花の女神フローラの装いを歌った一節がそのままタイトルになりました。
Q. この絵とサージェントの《マダムXの肖像》にはどんな関係がありますか?
A. 《マダムXの肖像》のスキャンダルによってパリを追われたサージェントが、ロンドンへ移住した直後の時期に手がけた作品です。逆境からの再起を象徴する一枚とも言えます。
Q. 《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》はどこで見られますか?
A. ロンドンのテート・ブリテンが所蔵しています。
まとめ
《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》は、パリでのスキャンダルからロンドンへ逃れたサージェントが、毎夕ほんの20分だけ、同じ薄暮の光を辛抱強く追い求めて完成させた、詩情と丹念な観察が結晶した傑作です。流行歌の一節から取られた変わったタイトルの奥には、何か月にもわたる根気強い制作の物語が刻まれています。逆境の中でこれほど繊細で美しい一枚を生み出したサージェントの姿勢は、困難な時期こそ新しい表現の扉を開く機会になり得ることを、静かに物語っているのです。


