ナバラの貴族の家に生まれた末っ子が、パリの大学の一室で、一人の元軍人と出会う。この出会いがなければ、彼はおそらく故郷で穏やかな人生を送っていただろう。しかし彼はこの出会いを機に、インドから東南アジア、そして日本と中国の入り口にまで至る、壮大な旅路を歩むことになる。この記事では、フランシスコ・ザビエルの生涯と、彼が日本にキリスト教をもたらすまでの道のりをたどっていく。
生涯
ナバラの貴族の家に生まれて
ザビエル(本名フランシスコ・デ・ハッソ・イ・アスピルクエタ)は1506年4月7日、当時ナバラ王国領だったハビエル城で生まれた。母はアスピルクエタ家とハビエル家の相続人であり、父はナバラ王の顧問官を務める人物だった。大家族の末っ子だった彼は、当初恵まれた幼少期を送っていたが、父の死や、ナバラをめぐる周辺国との争いによって、その暮らしは次第に不安定なものになっていった。
パリでの出会い
学問への意欲を持っていたザビエルは、1525年、19歳でパリ大学へ留学し、サント・バルブ学院に入学する。ここで彼はサヴォワ地方出身のピエール・ファーブルと同室になり、深い友情を育んだ。1530年には修士号を取得し、アリストテレス哲学の講義も担当している。1529年、この学院にはイグナチオ・デ・ロヨラが客人として滞在しており、彼はまずファーブルを、続いてザビエルを、自らの構想へと巧みに引き込んでいった。ザビエル自身は当初この誘いに消極的だったとも伝えられているが、最終的には彼らの仲間に加わることを決意する。
イエズス会の創設
1534年8月15日、ザビエルは他の6人の仲間とともに、パリのモンマルトルで清貧と貞潔の誓願を立てた。これがイエズス会創設の出発点となる。彼はこの修道会が正式に教皇の承認を得る(1540年)よりも前に、すでにインドへの派遣が決まっていた。
インドと東南アジアでの宣教
インドに到着したザビエルは、この地を拠点に精力的な宣教活動を展開し、マラッカ・ボルネオ・マルク諸島といった、それまでキリスト教宣教師が足を踏み入れたことのなかった地域にまで活動を広げていった。カトリック教会は、彼が聖パウロ以来最も多くの人々をキリスト教に改宗させた人物だと位置づけており、歴史家たちは彼による洗礼者数を約3万人と推定している(伝承ではこれが10万人にまで及ぶとも語られる)。
日本への到達
やがてザビエルは、日本での布教を成功させるためには、日本人が知恵の源として仰いでいた中国の影響力を無視できないと考えるようになる。彼はまず日本を目指し、海賊の船を雇ってまで航海を実現させ、1549年6月24日に出発、同年8月15日、鹿児島に上陸した。この地は、彼に協力していた日本人改宗者アンジロー(ヤジロウ)の故郷でもあった。ザビエルは他の宣教地と同様、現地の習慣に合わせながら、宗教文書の翻訳にも取り組んでいく。現地の領主は当初、キリスト教の布教を許可したものの、自らが改宗することはなかった。ザビエルは日本で2年近くを過ごし、この間に一定の改宗者を得ている。
インドへの帰還と中国への決意
1551年末、日本到着以来一通の便りも受け取っていなかったザビエルは、一時的にインドへ戻ることを決意した。1552年1月にインドへ戻った彼のもとには、ローマへ帰還して活動報告を行うようにという指示が届いていたが、彼はそれよりも先に中国を訪れることを選ぶ。当時彼は新設された「インド管区」の責任者として行政的な職務も担っており、規律に問題のあった修道士を解任するなど、組織の立て直しにも取り組んでいた。彼は友人ジェームズ・ペレイラがポルトガルの中国使節として任命されるよう取り計らい、1552年4月25日、1人の司祭と4人の助手とともに、再び東方への航海に出発した。
中国を目前にした最期
同年9月、ザビエルの一行は広東湾に到達し、サンチャン(上川)島に上陸した。この島は、中国人密輸業者の隠れ家であり、同時にポルトガル商人たちの拠点でもあった。当時の中国は外国人の入国を固く禁じており、ザビエルを本土へ渡してくれる密輸業者は見つからなかった。渡航を約束したある人物は、彼から金を受け取ったまま姿を消してしまう。同年11月21日、ザビエルは熱病に倒れた。12月1日、一時的に意識を取り戻した彼は、残された時間を祈りに捧げたと伝えられている。そして12月3日朝、フランシスコ・ザビエルは46歳で、中国本土をついに踏むことなく、この島でその生涯を閉じた。
死後の歩み
彼の遺体はまずこの島の浜辺に埋葬されたが、翌1553年、遺体はほぼ腐敗していない状態で発見され、マラッカを経てゴアへと運ばれた。彼の遺体は今日もゴアに安置され、10年ごとに信者たちの礼拝のために公開されている。1619年に列福され、1622年にはイグナチオ・ロヨラと同じ日に列聖された。1927年には、教皇ピウス11世によって、全世界の海外宣教の共同守護聖人にも定められている。
主要な出来事
- 1506年4月7日:ナバラ王国ハビエル城で誕生
- 1525年:パリ大学へ留学
- 1534年8月15日:モンマルトルで誓願を立てイエズス会創設に参加
- 1549年8月15日:鹿児島に上陸し日本での宣教を開始
- 1551年末:日本からインドへ帰還
- 1552年:中国への渡航を試みるも上川島で発病
- 1552年12月3日:46歳で死去
現代への影響
フランシスコ・ザビエルは、日本に初めてキリスト教をもたらした人物として、日本のキリスト教史において特別な位置を占め続けている。「インドの使徒」「日本の使徒」と呼ばれる彼の生涯は、東西の文化がまだほとんど接点を持たなかった時代に、単身でその架け橋を築こうとした、稀有な軌跡として今も語り継がれている。
よくある誤解
誤解①「ザビエルは中国での布教活動をある程度成功させてから亡くなった」→ 実際は一度も中国本土に足を踏み入れることなく亡くなった
彼の生涯における大きな目標が中国布教だったことから、ある程度その活動に着手していたと思われがちだが、実際には彼は中国本土に上陸することが最後までかなわず、その入り口にあたる島で、熱病のため命を落としている。
誤解②「ザビエルは日本での布教を、最初から最も重要な目標として位置づけていた」→ 実際は日本布教の成功のために中国の影響力に着目していた
日本布教が彼の生涯を象徴する業績として知られているため、これが常に最優先の目標だったと思われがちだが、実際には彼は、日本人が知恵の源として中国を仰いでいたことに気づき、日本での布教を真に成功させるためには、まず中国への布教こそが不可欠だと考えるようになっていた。
FAQ
Q. フランシスコ・ザビエルとはどんな人物ですか?
A. ナバラ王国出身のカトリック宣教師で、イエズス会の創設メンバーの一人です。インドや東南アジアでの宣教活動を経て、1549年に日本へ到達し、初めてこの地にキリスト教を伝えました。
Q. なぜザビエルは日本への渡航に海賊の船を使ったのですか?
A. 当時、日本へ向かう安全な航路を確保することが難しく、彼は目的を達成するため、海賊の船を雇うという手段を選ばざるを得なかったためです。
Q. なぜザビエルは中国を目指したのですか?
A. 日本人が知恵の源として中国を仰いでいたことに気づき、日本での布教をより確実に成功させるためには、まず中国への布教が不可欠だと考えたためです。
Q. ザビエルはどのように亡くなったのですか?
A. 1552年、中国本土への上陸を目指して上川島で待機していた際に熱病に倒れ、同年12月3日、46歳で、本土に足を踏み入れることなくその生涯を閉じました。
まとめ
パリの大学の一室での偶然の出会いが、一人の貴族の子弟を、インドから日本、そして中国の入り口にまで導いていった。目前に見えていたはずの中国本土に、最後まで足を踏み入れることができなかったという事実は、彼の生涯が決して完結した成功譚ではなかったことを物語っている。それでもなお、鹿児島の浜に降り立った瞬間から始まった彼の旅路は、日本という国の宗教史に、消えることのない足跡を残し続けている。
