画面のほとんどを占めているのは、堂々たる馬の後ろ姿です。その足元に、両腕を大きく広げ、目を閉じたまま倒れている一人の男がいます。《聖パウロの回心》(1601年頃)は、イタリア・バロックを代表する画家カラヴァッジョによる油彩画で、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂、チェラージ礼拝堂に今も掛けられています。使徒パウロの回心という聖書の場面を描きながら、その主役の座を、まるで農耕馬のような一頭の馬に奪われてしまったかのような、大胆な構成を持つ作品です。
基本情報
作者:カラヴァッジョ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1571〜1610)
制作年:1601年頃(第二作)
技法・素材:油彩・カンヴァス
サイズ:約230×175cm
所蔵:チェラージ礼拝堂、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂(ローマ)
依頼主:モンシニョール・ティベリオ・チェラージ(教皇クレメンス8世の財務長官)
対をなす作品:《聖ペテロの磔刑》(同じ礼拝堂に所蔵)
一言でいうと
《聖パウロの回心》は、ダマスコへ向かう途中、天からの光に打たれて落馬したパウロが、地に倒れたまま両腕を天へ伸ばす瞬間を描いた作品です。しかしこの絵で最も存在感を放っているのは、パウロ本人ではなく、画面の大半を占める一頭の馬であり、その配置そのものが、この場面の意味を静かに問い直しています。
制作背景
この絵は1600年9月、教皇クレメンス8世の財務長官を務めていたモンシニョール・ティベリオ・チェラージから、自らの一族の墓所となる礼拝堂のために依頼されました。同時に依頼されたもう一点《聖ペテロの磔刑》とともに、この二作は、アンニーバレ・カラッチが手がけた祭壇画《聖母被昇天》を左右から挟むように配置される予定でした。
カラヴァッジョの伝記を著した同時代人ジョヴァンニ・バリオーネによれば、最初にカラヴァッジョが描いた両作は依頼主チェラージの気に入らず、拒絶されたため、現在礼拝堂に掛かっている第二作へと描き直されたと伝えられています。ただしバリオーネはカラヴァッジョに敵意を抱いていた人物であり、近年の研究ではこの逸話の信憑性そのものに疑問が呈されています。美術史家キャサリン・プリジーは、カラッチの祭壇画が披露された際、それと比べて自作が時代遅れに見えることにカラヴァッジョ自身が気づき、依頼主の意向とは関係なく描き直した可能性を指摘しています。板に描かれたとされる最初のバージョンは、現在ローマのオデスカルキ家が個人蔵として所有していると考えられています。
見どころ

主役を奪う馬
画面の大部分を占めるのは、繊細な軍馬というよりは農耕馬を思わせる、どっしりとした馬の姿です。パウロはその足元に小さく描かれ、まるで馬の方がこの場面の主人公であるかのような構図になっています。聖書の本文自体には馬についての記述はなく、この動物はカラヴァッジョ以前から絵画の伝統として定着していた、脚色による追加要素です。
閉じた目と開かれた両腕
パウロは目を閉じたまま、両腕を大きく広げて地に横たわっています。この瞬間、彼は肉体の視覚を失いつつありますが、その代わりに真の意味で「見え始めた」のだという、逆説的な精神性がここに込められています。柔らかな金色の光が、彼の顔と天へ向けた両の手のひらを照らし出しています。
手綱を取る老いた馬丁
画面右上には、馬の手綱を取る年老いた馬丁の姿が控えめに描かれています。パウロの劇的な回心とは対照的に、この人物はただ淡々と自分の仕事をこなしているようにも見え、日常と超越的な出来事とが同じ画面の中で静かに同居しています。
評価と受容
この絵は、カラヴァッジョの作品としては珍しく、制作当初からの場所――チェラージ礼拝堂――に今も掛けられ続けている一枚です。伝記作家ヘレン・ラングドンはこの絵の様式を「ラファエロと粗野な写実主義とが奇妙に混ざり合ったもの」と評しており、鋭角的な形態と、劇的な効果を狙って細部を切り取るような不合理な光の使い方が、「危機と混乱の感覚」を生み出していると指摘しています。第一作の存在をめぐる謎も含め、この絵は今なお研究者たちの関心を集め続けています。
よくある誤解
誤解①「この絵に描かれた馬は聖書の記述に基づいている」→ 実際は聖書に馬についての言及はない
劇的な落馬の場面から、聖書に忠実な描写だと思われがちですが、実際には使徒言行録の原文に馬への言及はなく、この動物はカラヴァッジョ以前から続く絵画上の伝統的な脚色として描き加えられています。
誤解②「この絵は最初から一度で完成した」→ 実際は第一作が拒絶され、描き直された可能性が高い
現在の姿がそのまま制作されたと思われがちですが、実際には最初に板に描かれたバージョンが存在し、何らかの理由でこの第二作へと差し替えられた経緯があります。もっともその拒絶の理由については、史料の信頼性も含めて今も議論が続いています。
FAQ
Q. 《聖パウロの回心》とはどんな作品ですか?
A. カラヴァッジョが1601年頃に手がけた油彩画で、天からの光に打たれて落馬したパウロが地に倒れる瞬間を、巨大な馬とともに描いています。ローマのチェラージ礼拝堂が所蔵しています。
Q. なぜこの絵では馬がこれほど大きく描かれているのですか?
A. 聖書には馬についての記述がないにもかかわらず、この動物を画面の主役級の存在として配置することで、パウロの人間的な無力さと、彼を打ちのめした神の力との対比を強調していると考えられています。
Q. この絵には別のバージョンがあるのですか?
A. 板に描かれた最初のバージョンが存在し、現在はローマのオデスカルキ家が所蔵していると考えられていますが、なぜ描き直されることになったのかは、はっきりとは分かっていません。
Q. 《聖パウロの回心》はどこで見られますか?
A. イタリア・ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂、チェラージ礼拝堂が所蔵しています。
まとめ
聖なる啓示の場面でありながら、画面の主役の座を一頭の馬に譲り渡すという大胆さこそ、カラヴァッジョらしい発想と言えるでしょう。倒れたパウロの静けさと、馬のどっしりとした存在感との対比は、420年以上を経た今も、この礼拝堂を訪れる人々を立ち止まらせ続けています。

