花瓶いっぱいの花と果物、そしてヴァイオリンが並ぶテーブルを前に、一人の若者がリュートを爪弾きながら、開かれた楽譜を見つめています。《リュート弾き》(1596年頃)は、イタリア・バロックを代表する画家カラヴァッジョによる油彩画で、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館が所蔵しています。伝記作家バリオーネによれば、カラヴァッジョ自身がこの絵を「自分が描いた中で最高の一枚」だと語っていたと伝えられていますが、実はこの構図には少なくとも二点、あるいは三点にも及ぶバージョンが存在し、どれが本物の「最高傑作」なのかをめぐって、今も研究者の間で議論が続いています。
基本情報
作者:カラヴァッジョ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、1571〜1610)
制作年:1596年頃
技法・素材:油彩・カンヴァス
所蔵:エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)
依頼主:枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテ
モデル(有力説):カストラート歌手ペドロ・モントーヤ
一言でいうと
《リュート弾き》は、両性具有的な顔立ちを持つ若者が、恋の歌をうたう楽譜を前にリュートを演奏する姿を描いた作品です。テーブルの上には、花瓶に生けられた花々、果物、そしてヴァイオリンと弓が丁寧に配置されており、静物画の要素と人物画の要素とが一枚の画面に融合しています。
制作背景
この絵は、カラヴァッジョが初めて得た有力なパトロン、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテのために制作されました。デル・モンテはカラヴァッジョをパラッツォ・マダマに住まわせ、音楽への強い関心も持つ人物として知られています。モデルとなった若者については、当時デル・モンテの邸宅に暮らし、システィーナ礼拝堂でも歌っていたカストラート歌手ペドロ・モントーヤだとする説が有力ですが、伝記作家ピーター・ロブは、《カードシャープス》や《占い師》のモデルも務めたカラヴァッジョの仲間マリオ・ミンニーティではないかとも指摘しています。
伝記作家バリオーネの記述によれば、カラヴァッジョはこの絵を「自分が手がけた中で最も美しい作品」だと考えていたといい、花瓶の水に映り込む窓の反射や、花びらに宿る露の描写にまで、驚くほど丹念な筆致が注がれていたと伝えられています。
見どころ

恋の歌を奏でる若者
若者の口はわずかに開かれ、テーブルに広げられた楽譜に記された恋の歌をうたっているかのような表情を浮かべています。厚みのある髪や、ふっくらとした唇、憂いを帯びた眼差しが、この人物像に独特の柔らかさを与えています。
静物画としての緻密さ
テーブルの上には、アイリスをはじめとする花々を生けた花瓶、洋梨や無花果などの果物、そしてヴァイオリンと弓が並べられています。これらの静物部分は、人物と同じくらい丁寧に描き込まれており、カラヴァッジョが人物画と静物画の両方に卓越した技量を持っていたことを物語っています。
大理石のテーブルという舞台
若者の前に置かれた大理石のテーブルは、《バッカス》など同時期の作品にも見られる、カラヴァッジョ特有の構図上の工夫です。この平らな台座が、人物と静物とを違和感なく一つの画面にまとめ上げる役割を果たしています。
評価と受容
《リュート弾き》には、エルミタージュ版のほかに、かつてワイルデンスタイン・コレクションに属し長らくニューヨークのメトロポリタン美術館に貸し出されていたバージョン、そして2001年に再発見されたバドミントン・ハウス旧蔵版という、少なくとも二つないし三つの類似作が存在します。伝統的には、デル・モンテが最初のバージョンをジュスティニアーニ侯爵に売却したため、カラヴァッジョが改めてデル_モンテのために新たなバージョンを描いたと説明されてきました。しかし近年の研究では、長年「本来のオリジナル」とされてきたワイルデンスタイン版が実は後世の別人による模写であり、エルミタージュ版とバドミントン旧蔵版こそがカラヴァッジョ自身の手による真作である可能性が高いとする見方が有力になりつつあります。エルミタージュ版自体の来歴は比較的よく記録されており、17世紀にはジュスティニアーニ家のコレクションに、その後ロシア皇室のコレクションを経て、1808年にバロン・ドノンによって購入され、19世紀初頭にエルミタージュへ収蔵されました。
よくある誤解
誤解①「《リュート弾き》はカラヴァッジョが手がけた唯一の作品である」→ 実際は複数のバージョンが存在する
一枚の絵として語られがちですが、実際にはエルミタージュ版のほかにも、少なくとも二つの類似した構図のバージョンが知られており、それぞれの真贋や制作順序をめぐって研究者の間で議論が続いています。
誤解②「長年メトロポリタン美術館で展示されていたバージョンこそが本来の原作である」→ 実際は近年、別人の模写である可能性が指摘されている
かつて有力視されていたワイルデンスタイン版(メトロポリタン美術館に貸し出されていた作品)が真作とされてきましたが、近年の研究では、このバージョンはカラヴァッジョ本人の手によるものではなく、後世の模写ではないかという見方が強まっています。
FAQ
Q. 《リュート弾き》とはどんな作品ですか?
A. カラヴァッジョが1596年頃に手がけた油彩画で、花や果物、ヴァイオリンが並ぶテーブルを前に、若者がリュートを弾く姿を描いています。エルミタージュ美術館が所蔵しています。
Q. モデルは誰だったのですか?
A. デル・モンテの邸宅に暮らしていたカストラート歌手ペドロ・モントーヤだとする説が有力ですが、カラヴァッジョの仲間マリオ・ミンニーティではないかとする説もあります。
Q. なぜこの絵には複数のバージョンがあるのですか?
A. デル・モンテが最初のバージョンを他の収集家に売却したため、改めて描き直したという説明が伝統的にありますが、近年の研究では、複数のバージョンのうち一部は後世の模写である可能性も指摘されています。
Q. 《リュート弾き》はどこで見られますか?
A. ロシア・サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館が所蔵しています。類似のバージョンは、かつてメトロポリタン美術館にも貸し出されていました。
まとめ
カラヴァッジョ自身が最高傑作だと語ったとされるこの一枚は、皮肉にも、その「最高傑作」の座を、複数のバージョンのどれが担うべきかという論争の中に置かれ続けています。花びらの露や楽譜の一音符にまで注がれた執着心を思うと、この作品をめぐる真贋論争もまた、カラヴァッジョの完璧主義がもたらした、もう一つの遺産なのかもしれません。

