葛飾応為(かつしか おうい、生没年不詳)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、「画狂老人」葛飾北斎の三女です。父の制作を助ける協力者でありながら、自身も独自の画境を切り拓き、とりわけ美人画においては、父である北斎自身が「自分は彼女に及ばない」と語ったと伝えられるほどの実力を持ちながら、生没年すら定かではない、謎に満ちた生涯を送った絵師です。

基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 栄(えい、お栄・阿栄・應栄とも) |
| 生没年 | 不詳(1801年頃〜1866年頃と推定されるが諸説あり) |
| 続柄 | 葛飾北斎の三女 |
| 得意分野 | 美人画、光と影を用いた陰影表現 |
| 代表作 | 《吉原格子先之図》《月下砧打美人図》 |
| 異名 | 「江戸のレンブラント」 |
一言でいうと
葛飾応為は、破天荒な天才絵師・葛飾北斎の娘として生まれ、その制作を陰で支え続けた協力者でありながら、自らも西洋絵画さながらの大胆な光と影の表現を確立し、美人画においては父自身が「自分には及ばない」と認めるほどの力量を示しながら、生没年すら定かでないまま歴史の陰に埋もれていった、稀代の女性絵師である。
生涯
北斎の娘として
応為は、「応為」という画号(ペンネーム)を用いた絵師で、本名は栄(えい)といい、お栄、阿栄、應栄などとも記されました。父・北斎には息子2人、娘3人がいたとされ、応為はその三女にあたります。応為という画号の由来には諸説あり、北斎が娘を「おーい、おーい」と呼んでいたことに由来する説や、逆に応為が北斎を「おーい、おーい親父どの」と呼んでいたことに由来する説、あるいは北斎の画号の一つ「為一(いいつ)」にちなむ説などが伝えられています。顎が突き出ていたことから、北斎は彼女を「アゴ」と呼んでおり、80代になってからの北斎自筆の書簡にも、自身の横顔と、尖った顎を持つ応為の似顔絵が添えられていたことが知られています。
長屋に残されていた北斎の描き損じの絵を手本に、幼い頃から絵を描き始めた応為は、次第に画才を発揮し、14歳にして商業絵師としてデビューを果たしたとされています。
離縁と父のもとへの復帰
応為は、絵師・南沢等明のもとに嫁ぎましたが、父譲りの画才と、思ったことをはっきり口にする性格から、夫の描く絵の未熟さを笑ったために離縁されてしまったと伝えられています。実家に出戻った応為は、以後、北斎の制作助手として画業を支え続け、父が没するまでその面倒を見続けました。世俗的な「女らしさ」にはこだわらず、酒をたしなみ、煙管をくゆらせ、衣食の貧しさも気にかけない、父譲りの豪胆な気性の持ち主だったとも言われています。掃除嫌いだった点まで父に似ており、画業に没頭するあまり部屋が散らかるたびに、引っ越しを繰り返していたというエピソードも残っています。
北斎が認めた美人画の腕前
応為は、北斎の作品制作を助ける協力者としてだけでなく、代作を手がけることもあったとされています。1915年に刊行された浮世絵の手引書には、北斎の落款がある春画の多くが、実は娘である栄女(応為)の筆によるものだという記述が残されており、北斎とボストン美術館所蔵の《唐獅子図》のような合作も確認されています。とりわけ美人画において、北斎自身が「自分の美人画は阿栄には及ばない。彼女は巧みに描き、画法によく適っている」と語ったと伝えられるほど、その実力は父からも高く評価されていました。応為はまた、裕福な商家や武家の娘たちのもとを訪ね、絵を教える師匠としても活動していたようです。
謎に満ちた晩年
北斎の没後、応為は「筆一本あれば生きていける」と豪語していたと伝えられています。しかし北斎の死から8年ほど経ったある日、67歳ごろの応為は「絵の仕事で出かける」と言い残したまま、二度と家に帰ることはありませんでした。晩年については諸説あり、仏門に入り、加賀前田家の庇護のもとで金沢で没したとする説もありますが、正確な生没年を含め、確かなことは今なお分かっていません。
代表作
- 《吉原格子先之図》(文政〜安政年間):吉原遊廓の妓楼を舞台に、光と影を大胆に対比させた応為の代表作。太田記念美術館所蔵。
- 《月下砧打美人図》:月明かりの下で砧を打つ女性を描いた作品で、繊細な陰影表現が見られる。
- 《唐獅子図》:父・北斎との合作とされる作品。ボストン美術館所蔵。
評価
応為の作品は、西洋絵画にも通じる大胆な光と影の表現を特徴とし、その完成度の高さから「江戸のレンブラント」とも称されています。しかし現存が確認されている応為の真筆は世界でわずか10点前後にとどまり、生涯を通じて父の陰に隠れた存在であり続けたことから、その画業の全貌は今日でも多くが謎のままです。近年では、こうした知られざる生涯そのものが小説や映画の題材として注目されており、朝井まかての小説『眩(くらら)』をはじめ、応為を主人公とした作品が相次いで発表されています。
よくある誤解
誤解①「応為はあくまで『北斎の娘』であり、独自の評価を得た絵師ではなかった」→ 実際は北斎自身が美人画では自分を超えると認めていた
「北斎の娘」という肩書きの陰に隠れがちですが、実際には北斎自身が「美人画にかけては応為には敵わない」と語ったと伝えられており、彼女は父からも独立した実力者として認められていました。
誤解②「応為の生没年や最期は史料によって明確に分かっている」→ 実際は生没年すら不詳で、最期の経緯にも複数の説がある
著名な絵師の娘であることから、生涯の詳細が明らかになっていると思われがちですが、実際には応為の生没年は今なお確定しておらず、晩年もある日突然姿を消したまま消息不明になったとされ、その最期についても複数の異なる説が伝えられています。
FAQ
Q. 葛飾応為とはどんな人物ですか?
A. 江戸時代後期の浮世絵師で、葛飾北斎の三女です。父の制作を助けながら、自らも独自の陰影表現を用いた美人画で高い評価を得ました。
Q. なぜ「江戸のレンブラント」と呼ばれるのですか?
A. 光と影を大胆に対比させる、西洋絵画にも通じる陰影表現を得意としたことから、17世紀オランダの巨匠レンブラントになぞらえてこう呼ばれています。
Q. 応為の作品はどのくらい現存していますか?
A. 真筆と確認されている作品は世界でわずか10点前後にとどまり、その希少性から美術館での展示も限られた機会にしか行われません。
Q. 応為の代表作は何ですか?
A. 《吉原格子先之図》が代表作として知られ、東京の太田記念美術館が所蔵しています。
まとめ
葛飾応為は、破天荒な天才絵師・葛飾北斎の娘として生まれ、その制作を陰で支え続けた協力者でありながら、自らも西洋絵画さながらの大胆な光と影の表現を確立し、美人画においては父自身が「自分には及ばない」と認めるほどの力量を示しながら、生没年すら定かでないまま歴史の陰に埋もれていった、稀代の女性絵師です。200年近くを経た今、彼女が残したわずかな作品群は、ようやくその真価とともに、再発見され始めています。


