《死霊が見ている》(マナオ・トゥパパウ、1892年)は、ポール・ゴーギャンがタヒチ最初の滞在中に描いた油彩画で、アメリカ・バッファローのオルブライト=ノックス美術館(AKG美術館)が所蔵する代表作です。裸のタヒチの少女がうつ伏せに横たわり、その傍らに黒装束の老婆が座る、この謎めいた光景は、ゴーギャン自身の実体験に基づいて描かれました。しかし、そのタイトルに込められた意味は、ゴーギャン自身の言葉によっても、単純には定まりません。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ポール・ゴーギャン(1848〜1903) |
| 制作年 | 1892年 |
| 技法・素材 | 油彩・黄麻布(ジュート)のカンヴァス |
| 所蔵 | オルブライト=ノックス美術館(アメリカ・バッファロー) |
| 原題(タヒチ語) | Manaò tupapaú |
| モデル | ゴーギャンの現地の伴侶テハーマナ(手紙ではテフラと呼ばれる) |
一言でいうと
《死霊が見ている》は、ある夜ゴーギャンが目にした恐怖に怯える少女の姿を出発点に、「少女が死霊を幻視しているのか」「死霊が少女を見つめているのか」という、画家自身も明言を避けた二重の意味を持つタイトルのもとに完成させた、タヒチ時代を象徴する作品である。
制作背景
ある夜の出来事
ゴーギャンが1901年に出版した紀行文『ノアノア』によれば、ある夜遅くに帰宅した彼は、当時ともに暮らしていた少女テフラ(テハーマナ)が、身動きひとつせず裸のまま、うつ伏せでベッドに横たわり、目を恐怖で大きく見開いている姿を目にしました。ゴーギャンは「私の怯えた顔を見て、彼女は私を、タヒチの伝説に登場する、眠れぬ夜をもたらす悪魔や妖怪トゥパパウだと思ったのではないか」と書き残しています。
「猥褻さ」を消すための構図
1892年12月8日、ゴーギャンは妻メッテに宛てた手紙で、この絵の制作過程を説明しています。「私は裸の少女を描いた。しかし、この構図では彼女が卑猥に見える。ただ、私はこの線やポーズは気に入った。そこで、恐怖に怯えた顔を描くことで、猥褻性を取り除いた。さらに、少女の感情を表現する必要があったので、背景に死霊を描いた」。当初、ゴーギャンは背後の人物を、少女が恐れる対象としての「死霊」だと説明していました。
見どころ

構図
この絵は、マネの《オランピア》の構図を下敷きにしているとされます。寝具の上に横たわる女性と、その傍らに控えるもう一人の女性という配置は共通していますが、《オランピア》の女性が仰向けで正面から鑑賞者を見つめ返すのに対し、本作の少女はうつ伏せの姿勢のまま、肩越しに視線を向けています。そして《オランピア》で花束を抱える侍女の役割を、ここでは不気味な死霊の姿が担っています。
技法
背景を支配する紫色は、写実を離れた象徴的な色彩表現であり、絵全体に不穏で幻想的な空気を漂わせています。背景に浮かぶ燐光のような花のかたちも、この超自然的な雰囲気を強めています。
図像学
ゴーギャンは、このタイトルが「少女が死霊のことを考えている」のか、「死霊が少女のことを見つめている」のか、いずれの意味にも取れると語りました。さらに興味深いのは、後の『ノアノア』において、ゴーギャン自身が付け加えた解釈です。当初の手紙では老婆こそが恐怖の対象だとしていたのに対し、後にゴーギャンは、実は自分自身こそが、彼女にとっての恐怖の対象だったのかもしれない、と書き加えています。この率直な告白は、単純な民族伝承の再現を超えた、複雑な心理的陰影をこの絵に与えています。
評価と影響
本作は1893年、ゴーギャンがコペンハーゲンでの展覧会に送った8点の絵の一つでした。当時ゴーギャンは、2,000フラン以上であれば手放してもよいと手紙で指示していたと伝えられています。1894年には、この構図をもとにした木版画も制作され、《ノアノア》連作の一枚として、ゴーギャンの死後1921年、四男ポーラによって版画集としてまとめられました。
よくある誤解
誤解①「タイトルの意味はゴーギャン自身によって一つに定められている」→ 実際は意図的に両義的なまま残された
「死霊が見ている」という日本語タイトルから、意味が一つに確定していると思われがちですが、実際にはゴーギャン自身が、「少女が死霊を思っている」のか「死霊が少女を見ている」のか、どちらの意味にも取れると語っており、意図的な両義性がこの絵の核心にあります。
誤解②「背景の人物が象徴する『恐怖』の正体は、終始一貫して同じだった」→ ゴーギャン自身の説明は後に変化している
当初の手紙では、背景の人物(死霊)こそが少女の恐怖の対象だと説明されていましたが、後年の『ノアノア』では、ゴーギャン自身がその恐怖の対象だったのかもしれないという、異なる視点が付け加えられています。この絵の解釈は、画家自身の言葉の中でも一定していません。
FAQ
Q. 《死霊が見ている》とはどんな作品ですか?
A. ゴーギャンが1892年に描いた油彩画で、うつ伏せに横たわる裸のタヒチの少女と、その背後に座る黒装束の人物(死霊)を描いています。オルブライト=ノックス美術館が所蔵しています。
Q. モデルは誰ですか?
A. ゴーギャンがタヒチで生活をともにしていた少女テハーマナ(手紙ではテフラと呼ばれる)です。
Q. なぜこのタイトルなのですか?
A. ゴーギャン自身、このタイトルが「少女が死霊のことを考えている」「死霊が少女を見つめている」の両方の意味に取れると語っています。
Q. この絵はマネの《オランピア》とどんな関係がありますか?
A. 寝具の上の女性と、傍らのもう一人の人物という構図が共通しており、《オランピア》を下敷きにしていると指摘されています。ただし女性のポーズや、傍らの人物の役割は大きく異なります。
まとめ
《死霊が見ている》は、ある夜ゴーギャンが目にした恐怖に怯える少女の姿を出発点に、「少女が死霊を幻視しているのか」「死霊が少女を見つめているのか」という、画家自身も明言を避けた二重の意味を持つタイトルのもとに完成した作品です。さらに、恐怖の対象が死霊なのか、ゴーギャン自身なのかという後年の告白も含め、この一枚には、単純な異文化の記録を超えた、複雑な心理の陰影が幾重にも折り重なっています。
