シベリア出兵は、1918年から1922年にかけて、ロシア内戦の渦中にあったシベリア・極東ロシアへ、日本やアメリカをはじめとする複数の連合国が軍隊を派遣した大規模な軍事介入です。表向きの目的は、ロシア国内に取り残されていたチェコスロバキア軍団の救出でしたが、各国の実際の思惑は大きく食い違っており、結果として複雑な様相を呈することになりました。この記事では、シベリア出兵の背景から展開、そしてその帰結までをわかりやすく解説します。
定義
シベリア出兵とは、1918年から1922年にかけて、ロシア内戦の期間中にシベリア・極東ロシア・モンゴルで展開された、連合国によるロシア介入の一戦域を指します。この介入は、シベリアにいたチェコスロバキア軍団の反乱をきっかけに始まりました。
発端:チェコスロバキア軍団の反乱
この出兵の直接の引き金となったのは、シベリアにいた「チェコ軍団」の反乱でした。この軍団は、オーストリア=ハンガリー軍に徴兵されてロシア軍の捕虜となっていたチェコスロバキア人たちからなり、独自の独立国家の樹立を切望していました。ロシアは彼らのために、中央同盟国と戦う独自のチェコスロバキア部隊を編成しています。
1917年、ボリシェヴィキは、チェコスロバキア軍団が中立を保ってロシアを離れることに同意すれば、ウラジオストク経由でフランスへ渡り、西部戦線で連合軍とともに戦うための安全な通行を保証すると表明しました。しかし、ロシア当局によるチェコ軍団の武装解除の試みをめぐって両者の間に衝突が生じ、これがこの出兵の発端となります。
展開
多国籍軍の派遣
イギリスやフランスをはじめとする主要な連合国の指導者たちは、チェコスロバキア軍団の西部戦線への撤退を助け、ロシア国内に大量に備蓄されていた連合国の軍需物資がドイツやボリシェヴィキの手に落ちるのを防ぎ、白系ロシア人の政府を樹立して東部戦線を再興させるため、反ボリシェヴィキの立場でロシア内戦へ介入することを決断しました。
1918年7月、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンは、アメリカと日本がそれぞれ7000人規模の兵力からなる共同遠征隊をウラジオストクへ上陸させることを提案しています。参加兵力の大多数は日本とアメリカから派遣されましたが、イギリス・フランス・カナダ・ベルギー・ポーランド・セルビア・イタリア・ルーマニア・中国の各部隊もこれに加わりました。最終的に日本は7万2000人、アメリカは約8000人(ウィリアム・S・グレーヴス少将率いる「アメリカ極東遠征軍」)の兵力を派遣しています。中華民国も1918年7月に介入へ同意し、同年8月には2000人の兵力でモンゴルとトゥヴァを占領しました。
各国の相反する思惑
表向きはチェコ軍救出のための派兵でしたが、参加国それぞれの目的は大きく異なっていました。アメリカは、革命の混乱でほとんど監視されていなかった、シベリア鉄道沿いに積み出しを待つ連合国の軍需物資の確保を重視し、この地域の経済と市民社会の安定化のため専門家も派遣しています。一方、日本の帝国陸軍参謀本部を中心とする拡張主義者たちは、この地域の支配権をロシアから奪い取ることを狙い、シベリア鉄道の沿線確保のために大規模な兵力を投入しました。日本はザバイカル地方のコサック指導者グリゴリー・セミョーノフやハバロフスクのイワン・カルミコフを支援し、この過程で現地の「パルチザン」への弾圧にも加担しています。
チェコスロバキア軍団の帰趨
1918年10月にチェコスロバキアが独立国家として宣言されると、兵士たちは自由となった祖国へ帰りたいという願い以外の戦意を失っていきました。1919年夏、シベリアの白系ロシア政権は崩壊し、カナダ軍は同年6月、イギリス軍は同年11月までに撤退しています。白系ロシアの提督アレクサンドル・コルチャークは、1920年2月、ウラジオストクへの安全な通行と引き換えに、チェコスロバキア軍によってボリシェヴィキへ引き渡されました。
介入の終結
チェコスロバキア軍団が1920年9月に撤退したことも重なり、連合国は同年、北ロシアとシベリアからの介入を終わらせました。しかし日本による介入だけは1922年まで続き、サハリン島北部の占領に至っては1925年まで継続しています。1922年10月25日、日本軍がウラジオストクから最終的に撤退したわずか数時間後、極東共和国の軍勢がこの街へ入城しました。その2週間後、極東共和国はソビエト連邦に吸収され、シベリア全土でボリシェヴィキの支配が確立し、ロシア内戦は終わりを迎えます。
現代への影響
シベリア出兵は日本国内に複雑な遺産を残しました。日本軍によるパルチザンへの弾圧は、現地での反日抵抗と、この介入に対する日本国内メディアの批判の高まりを招いています。目的の相反、包括的な戦略の欠如、そして戦争疲れと国内での支持の乏しさが重なり、この出兵は大きな困難を伴うものとなりました。今日この出来事は、相反する目的を持つ国々による多国籍軍事介入が、いかに複雑化し破綻しうるかを示す歴史的事例として参照されています。
よくある誤解
誤解①「シベリア出兵は、単一の目的を持つ統一された連合国の軍事作戦だった」→ 実際は各国の思惑が食い違う複雑な介入だった
「連合国による出兵」という呼び名から、統一された目的を持つ作戦だったと思われがちですが、実際にはチェコ軍救出というアメリカの表向きの目的と、日本の領土的拡張という思惑が大きく食い違うなど、参加国それぞれの目的が矛盾を抱えた介入でした。
誤解②「連合国軍は1920年に一斉にシベリアから撤退した」→ 実際は日本軍だけが1922年まで駐留を続けた
西側の連合国は1920年に撤退しましたが、日本軍だけは1922年までシベリアへの介入を続け、サハリン島北部については1925年まで占領を継続しました。
FAQ
Q. シベリア出兵とはどんな出来事ですか?
A. 1918年から1922年にかけて、ロシア内戦の期間中に日本やアメリカをはじめとする連合国が、シベリアと極東ロシアへ軍隊を派遣した軍事介入です。
Q. なぜチェコスロバキア軍団はロシアにいたのですか?
A. 元はオーストリア=ハンガリー軍に徴兵された兵士たちで、ロシア軍の捕虜となった後、独立国家樹立を目指してロシア側の部隊に編入されていました。
Q. アメリカと日本、参加した兵力の規模はどれくらい違いましたか?
A. アメリカ極東遠征軍が約8000人だったのに対し、日本は最大で7万2000人と、9倍近い兵力を投入しています。
Q. シベリア出兵はどのように終わったのですか?
A. 1922年、日本軍がウラジオストクから最終的に撤退した数時間後、極東共和国の軍勢がこの地に入城し、まもなくソビエト連邦に吸収されてロシア内戦は終結しました。
まとめ
シベリア出兵は、1918年、シベリアにおけるチェコスロバキア軍団の反乱をきっかけに、日本やアメリカをはじめとする連合国がロシア内戦へ介入した、大規模な多国籍軍事作戦です。チェコ軍救出という表向きの目的の裏で各国の思惑は大きく食い違っており、とりわけ日本は領土的な拡張を狙って他国よりはるかに長く、1922年までこの地に駐留を続けました。目的がばらばらな国々が一つの介入に加わることの難しさを、この出兵は今も物語っています。
