オーストリア継承戦争とは|「女に王位継承の資格なし」が招いた8年戦争を徹底解説

一枚の勅令が、娘に王位を継がせるための布石として発布された。しかし父親の死からわずか数か月後、その娘が「女である」という理由だけで、周辺国が次々と牙を剥き始める。この記事では、マリア・テレジアという一人の女性の継承権をめぐって、いかにしてヨーロッパ全土を巻き込む8年間の戦争が引き起こされたのかを見ていく。

目次

定義

オーストリア継承戦争とは、1740年から1748年にかけて、ハプスブルク家の女性当主マリア・テレジアの相続権をめぐって戦われた、ヨーロッパ規模の戦争を指す。プロイセン王フリードリヒ2世によるシレジア侵攻を発端に、フランス・バイエルン・スペインがオーストリア側の弱体化に乗じようと参戦する一方、イギリスとオランダがオーストリアを支援し、戦火はヨーロッパ大陸だけでなく北アメリカやインドにまで広がっていった。

具体例

オーストリア継承戦争の展開は、以下のような具体的な事実からうかがえる。

  • 1713年、神聖ローマ皇帝カール6世は「国事詔書」を発し、男子相続人がいない場合に娘マリア・テレジアへの継承を認めるよう定めた
  • 1740年12月16日、プロイセン王フリードリヒ2世はシレジアへの侵攻を開始した
  • 1745年、フランス軍はフォントノワの戦いでイギリス軍に大勝を収めた
  • 1748年10月18日、アーヘン条約が締結され、8年に及んだ戦争に終止符が打たれた

背景

1713年、神聖ローマ皇帝カール6世は、男系男子の相続人を欠いていたため、「国事詔書」と呼ばれる勅令を発し、娘マリア・テレジアへの領土継承を認めるよう定めた。この措置は、男子のみに相続を認める伝統的なサリカ法に反するものであり、多くの帝国議会の諸侯たちを困惑させたが、プロイセンを含む多くのドイツ諸邦は、この勅令を承認していた。1740年10月20日、カール6世が急死すると、まだ23歳で権力政治の経験も乏しかったマリア・テレジアが、ハンガリー女王・クロアチア女王・ボヘミア女王・オーストリア大公として、ハプスブルク家の領土を継承することになった。もっとも神聖ローマ皇帝の位そのものは選挙によって選ばれる性質のものであり、女性がこの地位に就いた前例はなかった。

展開

シレジア侵攻という引き金

同年5月にプロイセン王位に就いたばかりのフリードリヒ2世は、女性の統治者は本質的に弱いはずだと考え、この好機を逃さなかった。彼は自国がすでに国事詔書を承認していたにもかかわらず、シレジアの豊富な石炭資源と繊維産業という魅力に抗しきれず、同年12月16日、この地への侵攻を開始する。この第一次シレジア戦争(1740〜42年)を通じて、プロイセンはシレジアの大部分を奪取することに成功した。

諸国の思惑が交錯する戦場

マリア・テレジアの弱体化に乗じようとしたのは、プロイセンだけではなかった。フランスはバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの帝位への野心を後押しし、彼にボヘミア・上オーストリア・チロルへの請求権を主張させた。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストもモラヴィアと上シレジアへの権利を主張している。1741年、フランスの支援を受けたカール・アルブレヒトはプラハを占領したが、1742年、イギリスとハンガリーの支援を得たマリア・テレジアは反攻に転じ、バイエルンを制圧した。1744年、フリードリヒ2世は再びシレジアへの侵攻を試みたが、これは撃退されている。翌1745年には、フランス軍がフォントノワの戦いでイギリス軍に大勝を収めた。

世界規模に広がる戦火

この戦争はヨーロッパ大陸にとどまらず、北アメリカでは「ジョージ王戦争」(1744〜48年)として、インドでも英仏の対立として展開されていった。1745年6月、ニューイングランドの部隊がフランス領ルイスバーグ要塞を陥落させ、1746年にはフランスがインドのマドラスを占領するなど、両者は各地で一進一退の攻防を繰り広げている。

アーヘン条約という妥協

1748年10月18日、アーヘン条約が締結され、8年に及んだこの戦争に終止符が打たれた。この条約は「戦前の状態への回復」という原則に基づき、ルイスバーグはフランスへ、マドラスはイギリスへとそれぞれ返還されたが、この決定は自らの手で要塞を陥落させたアメリカ植民地の人々の間に、強い不満を引き起こしている。オーストリアはイタリアのパルマ・ピアチェンツァ・グァスタッラをスペイン・ブルボン家の一員に割譲する一方、プロイセンはシレジアの保持を認められ、これは実質的にプロイセンのヨーロッパにおける台頭を認める結果となった。すべての署名国は、国事詔書とマリア・テレジアの統治権を正式に承認することが義務づけられている。もっともこの条約は妥協の産物にすぎず、交渉の席についた誰もが満足するものではなかった。マリア・テレジア自身がシレジア喪失を個人的に受け入れることは決してなく、英仏・英西間の植民地をめぐる摩擦も解消されないままくすぶり続け、これらの未解決の緊張は、後の七年戦争という次なる大規模な衝突へとつながっていくことになる。

現代への影響

オーストリア継承戦争は、一人の女性の継承権をめぐる争いが、いかにしてヨーロッパの勢力均衡そのものを揺るがす大規模な戦争へと発展しうるかを示す事例として、今日も歴史研究の重要な対象であり続けている。この戦争を通じてプロイセンがシレジアを保持し続けたという事実は、以後のヨーロッパにおける独墺(オーストリア・プロイセン)対立の構図を決定づけ、ドイツ統一に至るまでの長い歴史的な道筋の出発点の一つとなった。

よくある誤解

誤解①「アーヘン条約は、オーストリア継承戦争が抱えていた対立を根本的に解決した」→ 実際は多くの緊張を未解決のまま残す妥協の産物だった

戦争を正式に終結させた条約であることから、対立の根本的な解決をもたらしたと思われがちだが、実際にはこの条約は多くの当事者にとって不満の残る妥協にすぎず、シレジアをめぐるオーストリアの遺恨や、英仏間の植民地対立は解消されないまま残り、後の七年戦争へと引き継がれていった。

誤解②「フリードリヒ2世は、プロイセン自身が国事詔書を承認していなかったためシレジアへ侵攻した」→ 実際はプロイセン自身がこの詔書をすでに承認していた

彼の侵攻が国事詔書への異議に基づくものだったと思われがちだが、実際にはプロイセンはこの詔書をすでに承認していたにもかかわらず、フリードリヒ2世はマリア・テレジアの若さと経験不足を好機とみなし、この既存の合意を反故にする形で侵攻に踏み切っている。

FAQ

Q. オーストリア継承戦争とはどんな戦争ですか?
A. 1740年から1748年にかけて、ハプスブルク家の女性当主マリア・テレジアの相続権をめぐって戦われた、ヨーロッパ規模の戦争です。プロイセンによるシレジア侵攻を発端に、多くの列強が参戦しました。

Q. なぜフリードリヒ2世はシレジアに侵攻したのですか?
A. 女性の統治者は弱いはずだという考えのもと、シレジアの豊富な資源に着目し、マリア・テレジアの若さと経験不足という好機に乗じて侵攻に踏み切りました。

Q. アーヘン条約ではどんな内容が定められたのですか?
A. 戦前の状態への原則的な回復が定められ、プロイセンはシレジアの保持を認められる一方、すべての署名国は国事詔書とマリア・テレジアの統治権を正式に承認することが義務づけられました。

Q. この戦争はその後どんな影響を残しましたか?
A. シレジアをめぐるオーストリアの遺恨と英仏間の植民地対立が未解決のまま残り、これらの緊張は後の七年戦争という、より大規模な衝突へとつながっていきました。

まとめ

娘への継承を守るために発布された一枚の勅令が、皮肉にもその娘が王位に就いた瞬間、周辺国の野心を呼び覚ます引き金となった。8年に及ぶ戦火の末に結ばれた条約も、誰一人として満足させない妥協にすぎなかった。マリア・テレジアはシレジアを失った痛みを生涯忘れなかったという。その執念こそが、次なる七年戦争への導火線だった。

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